主張<10> 教育者は若者に「選択肢」を与えよ

人生に「選択肢」はいくらでもある

 

 私は14年間アメリカにいましたが、帰国して非常に気になったのが、日本の大学の学生の様子です。大学に入ってきた頃はすばらしく優秀なのに、学年が進むにつれて視野がどんどん狭くなっていく。これは、教育を施す側の問題で、日本の大学の教育レベルが低いということです。私がおもに見ていた医学の分野に話を絞ると、20代の頃は目を輝かせていた学生たちが、30歳ぐらいになると一様に活気がなくなります。そして、「①このまま医局に残るか、②関連病院に勤務するか、③開業でもしようか」という、わずか三択の狭い思考に陥っています。しかし、人一人の可能性として、海外に出て活躍しよう、もっと修行を積もう、免許をとったら何はともあれ世界を見て回ろう、国内の僻地医療に貢献しようetc. 本来もっとたくさんの選択肢があるはずなのです。特に今はグローバル時代なのですから、高等教育を受けた者が海外にいくらでも活躍の場を持てることは、みなさん知っているはず。それなのに、日本の大学教育の現場にいる教育者の多くが、いにしえの昭和の時代に自分が受けた教育スタイルを、そのまま今の学生に押しつけていました。

 日本の大学の教育者は、自分の研究テーマや業績だけに執心していて、次世代の人材を育てるという意識がないと感じることが多々あります。しかし、大学院生やポスドクは、教授が自身の業績を増やすために論文作成を手伝わせる手駒ではないはず。教育者の一番の誇りは、やはり自分の育てた学生であるべきであり、業績ということなら「どのような教え子を育てたか」でしょう。例えば、研究大国であるアメリカの学会は「有能な若者の見本市」のようなもので、来ている人はみんな「いい人材がいたらスカウトしよう」と思っています。見込みのある人材を見つけたら、「この若者を育てたのは誰だ」ということを必ず確認します。若者の学会発表では同時にその人を教育した教授の能力も見られているのですね。私がアメリカにいたとき、教え子の学会発表ではいつも自身の発表以上に緊張させられたものです。

 グローバル時代の教育者は、「現代における高等教育の本質とはなにか」を常に考えるべきです。そうすれば、己がなすべき仕事は、若者の一人ひとりに「自分が何をしたいか」をきちんと考えさせ、人生にはさまざまな「選択肢」があることに気づかせ、個として独立させることであるとわかるはずです。例えば「日本の常識が合わない」と悩んでいるような学生がいれば、場合によっては「それでいいのだよ」と励まし、海外に送り出したり、自分のツテを紹介したりして、彼ら彼女らにさまざまな選択肢があることを知らせる。ときには自らが既定路線から外れていく姿を見せる。それが、教育者の使命といえます。日本の学生の視野が狭く、既定路線から外れて一歩踏み出すことを極端に恐れる傾向があるのも、結局は、彼らの上に立って教育をしている人間が、自ら「選択」をしてこなかったからです。上の世代の教育者が広い世界にあるさまざまな可能性を知らないがために、狭い日本の中で既定路線を進むしかないと思い込んでしまう学生が少なからずいる。それが、いまの日本の閉塞感を生んでいる原因の一つでもあるでしょう。

 

定年1年前に東大を辞めて3か月で東海大学に異動

 

 私は1996年に、東京大学医学部第一内科教授の任期を1年余り残して、東海大学に移動しました。3月に発表して、7月には赴任。みささんに「え!? どうして?」とずいぶん驚かれましたね。東大から東海大学に異動する人など珍しいですし、一般的には定年後に公的病院の院長に就任するというのがよくあるパターンだったはずです。「退職間近で辞めるなんてもったいない。退職金にペナルティーを受けるでしょうに」などとも言われました。しかし、もともと私は病院長になる気はありませんでした(水面下で打診がきていましたが、お断りしていました)。病院長は私でないとできない仕事ではないですし、ほかに適任者は大勢いるからです。それよりも、帰国してからずっと気になっていた大学教育の改革をやりたいと思っていました。また、私自らが既定路線を外れる姿を学生や若い医師たちに見せて、人生にはさまざまな選択肢があることを、私の身をもって示したかったのです。

 場所や所属を何度も変え、多くの優れた方々に教育を施してもらった私は、自身も教育の場にいたいと強く思っていました。海外で教育を受けて帰国したとき、学生に対して親身になれる自分に気づいたのです。「教育の意味」というものは、いい教育を受けたことがない人にはわからないものかもしれません。いろいろな場面ですばらしいメンターに出会い、育ててもらった経験がないと、よい教育者にはなれません。そういった点で、教育の基本は「恩返し」なのでしょう。

 もちろん、心配がないわけではありませんでした。院長就任の打診を断った時点で、ほかに定年後の行き先があったわけではありません。ただ、リスクを目の前にして迷ったとき、可能性の有無は別として、自分がやりたいことがやれる選択に賭ける気概があるかどうかは、人生のターニングポイントで大きな影響力を発揮します。人間、強い気概があれば、チャンスというものは訪れるものです。このとき大事なのは、「これはどうしても譲れない」という自らのボトムラインを決めておくことです。そうでないと、見栄や外聞、いっときの利益に惑わされ、自らの人生を自ら選択できないつまらない人生を送るはめになります。私にとってそれが教育改革でした。

 そう考えて、私自身が人生を通して得た「経験則」に身を委ねたところ、東海大学から「うちの医学部長になってくれないか」という話がきたのです。当時、東海大学はほかの大学との差別化を図るために医学部教育の改革をしようとしていました。一方の私は、東大の医学部で、学生を海外の大学や病院に短期留学させたり、アメリカ流の講義方法を採用したり、ハーバード大学医学部が1987年に導入したNew Pathwayという学生たちの協同学修のカリキュラムを学生たちに実体験させたりと、さまざまな新しい教育を導入しつつ、あちこちで教育の重要性を説いてまわっていました。そこで私に白羽の矢が立ったのでしょう。

 東海大学では、学生たちに「外の世界」を知ってもらうため、アメリカ、イギリス、オーストラリアでのクラークシップ(学生が医療チームの一員として実際の診療に参加する臨床実習)の仕組みをつくり、若い医師たちをどんどん海外に送り出しました。医師たちには、「日々、気づいたこと/感じたことを、私にメールしなさい」と言ったところ、「英語が伝わらず、仕事も難しく、苦労しています。しかし、大変勉強になっています。先生やレジデントだけでなく、看護師さんや患者さんも含め、みんなに育てられていると感じます」「毎朝7時からプレゼンテーションがあり、準備に追われて1日2時間しか眠れません。ただ、先生たちは『恥ずかしがらずにどんどん質問しなさい』と励ましてくれます」「自分の成長を実感でき、人生の目標がクリアになりました」といった報告が毎日のように送られてきました。これらのメールに最優先で返事を書きながら、私は、短期間の留学であっても若者たちの意識が大きく変わり、彼ら彼女らの知的水準がグッと上がるのをはっきりと感じました。後に、これらの仕組みは他大学にも広がりました。

 

なぜ外から自分を見るべきなのか

 

 私が若者に海外に出ることをしきりに勧めていると、私自身の経験から「欧米に傾倒している」「アメリカを全面的に称賛している」という誤解をする方もいますが、それは大きな間違いです。海外に出て自分の国を外から見ると、自分の国の国民性や文化の良さ、強さ、弱さを相対的に感じ取れるようになります。日本のいいところに改めて気づく一方で、日本での常識がとんでもない非常識なものとして胸に迫ってくるかもしれません。同時に、世界に自分が存在する意味を見いだすことができるようになり、自分自身の良さ、強さ、弱さも感じ取れるようになります。そういうものなのです。また、私がアメリカを面白いと感じるのは、アメリカほど、異なる知識と技術、背景、価値観を持った人が集まる国はないからです。個々の知識と技術はともかく、アメリカに留学すると、日本では絶対に体験にできない「ちがい」というものを実体験できます。そこに価値を見いだしているのです。

 実際に外の世界に、できれば組織の庇護などない「個人」として行って、自分の目で見て、感じ、いろいろな人に出会う。生き残るために現場で必死に感覚を研ぎ澄ませる。海外で学んだ経験のある人はみな実感することですが、そうすることで、はじめて気づくことがたくさんあり、本当の知恵というものが身につきます。明治維新のころの日本には、そのように海外で学んだ後、偉業をなした人が大勢いたように思います。イギリスからたくさんの本を持って帰って自分で読み解き、いくつもの本を著し紹介した福沢諭吉。アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国で学んだ岩倉使節団。最年少の満6歳でその岩倉使節団に随行した津田梅子。長州ファイブ、薩摩セブン、山川健次郎。アメリカに渡り、後に日本人初のイェール大学教授となった朝河貫一etc. 一度外に出て知恵と自分の価値観を身に着けたとき、彼ら彼女らのように自分のやりたいことやキャリアを見つけられます。

 広い世界をいちど経験すると、それまで日本の中の狭い世界でお山の大将を気取っていたような人も、たいていの場合は自分を過信することがなくなり、謙虚になります。その謙虚さこそが、いっそうの自己研鑽につながり、やがて自分自身に対する大きな自信を生み出します。私が海外に送り出した若い医師たちに関していえば、アメリカのレジデントの生活は日本の研修医の厳しさの比ではありませんから、最初はみんなショックを受け、苦労をします。しかし、その経験をした人たちはみんな、日本の医療を自分なりに考えることができるようになっていきます。また、日本だけでなく、アジア、世界へと考えの視野が広がっていきますし、10年先の時間軸で医療について考えられるようになっていきました。中には、インドに行って実際の貧困を目の当たりにした途端、「これをなんとかするのが、自分の人生のミッションだ」と気づいた若者もいました。このような自分のロールモデルを見つけるチャンス、自分が夢中になれることに出会う機会が、一人でも多くの若者に開かれていてほしいものです。実体験に気付きや心のときめきを得られたとき、「これが私の一生の仕事だ」と思えます。すると、自分のモチベーションや目標が定まり、「多少のリスクがあってもどうにかやってやる!」という気概が持てるようになります。

 人も物も情報もフラットにつながるグローバルな時代。これからの若者は日本の中でどうこうしようとするよりも、思い切って海外に出てしまった方が圧倒的にチャンスは大きいことは確かです。やりたいこと、目指したいロールモデル(お手本となるような人)、メンター(指導者)は、人それぞれでしょうが、それを均一性の高い日本という国の1億2000万人の中から探すのと、全世界の78億7500万人の中から探すのとでは、得られる可能性がまったくちがってきます。

 なにも、私のように海外で何年もすごしながら、延々と激しい他流試合を続けなさいと言っているわけではありません。若者は数カ月であってもいいので、一度は外で他流試合を経験してみることで、自分の価値観を見つけなさいと言っているのですよ。若者に世界の広さを知ってもらい、自分自身や日本のいう国と比較する対象を持ってもらう機会をつくるのは、教育者の義務です。教育者は、「彼は私の教え子です」とつい誇りたくなるような学生を、広い世界に送り出す責任があります。私などは、世界で活躍する教え子がメディアで「私は黒川清先生に教育を受けました」と語ってくれているのを見ると、心の底から嬉しく思うのですがね。

主張<9> 「健康立国日本モデル」を世界に示せ

慢性疾患が世界を襲っている

 

 そう遠くない未来に私たち日本人を取り巻くであろう環境は、おおよそ予測がつきます。少子高齢化が進み、慢性疾患の患者が大量に発生します。慢性疾患を抱えた高齢の家族のケアを労働者が負うようになり、国の生産力はさらに落ちていくでしょう。実際、この30年間、日本のGDPは増えていませんから、そう遠くない時期に日本の社会保障は限界を迎えます。このままでは必然的に、現在の日本の医療制度は維持できなくなります。

 ただ、これは日本にかぎった話ではありません。一般的に、先進国では、国民の生活水準が高く栄養が行き渡ります。産業は第三次産業がメインになるため、人々は発達した交通機関のある都市に住んで、体を動かさなくなります。その結果として、糖尿病、高血圧、脂質異常症といった慢性疾患が増加します。ちなみに、中年に2つ以上の慢性疾患があると、後年の認知症のリスクが高まるという研究結果があります。高齢化社会の進行も相まって、認知症患者も増えていくということですね(認知症については前回の記事で書きましたので、ぜひお読みください)。

 人間の病気というと、これまでは貧しく不衛生な生活環境で発生するマラリア、結核、エイズのような感染症が主たる課題でした。しかし、現在、地球上で大勢の人々を襲い、命を奪い続けているのは、近代的で豊かな生活環境で発生している上記のような非感染性疾患であることが大きな特徴です。これは20世紀半ばまでの感染症を中心とした医学的思考では対応の難しい課題です。経済先進国でも前例がなかったことなので、まだ「理想的な社会モデル」は見つかっていません。

 歴史を振り返ると、人類の健康を脅かしてきた主な疾病は、マラリアや結核、エイズなど、貧困と不衛生な環境から生まれる感染症でした。ところが、現在、世界中で人々の命を脅かしているのは、皮肉にも経済発展と生活水準の向上がもたらした非感染性疾患です。これは、感染源の特定と衛生環境の改善という20世紀半ばまでの医学的思考では解決できない、人類の新しい課題といえます。この課題については、どの先進国もまだ有効的な解決策を見いだせていないのが現状です。

 しかし、どこも解決策を持っていないということは、逆に言えば、「理想的なモデル」を最初に構築できた国が、世界の範となれるということでもあります。そして、わが国はこの課題に最も早くそして最も深刻な形で直面しています。幸か不幸か。いずれにしても、チャンスと捉えるべきでしょう。

 

日本の医療政策に3つの提案

 

 認知症を含む慢性疾患が発生しやすい日本社会は、どのような医療政策をとるべきか。私から3つ、提案しておきます。第一には、国の医療費をできるだけ抑制するため、国民に健康的な生活習慣を根付かせることです。幸いなことに、糖尿病、高血圧、脂質異常症といった慢性疾患の多くは予防できます。認知症も、有効な治療法は見つかっていませんが、上記の慢性疾患を回避することで、ある程度の予防はできると考えられます。国民の一人ひとりが、まず己の健康状態を知り、自分で慢性疾患を予防するようになれば、医療行為は減らせて、国民医療費の高騰も抑えられます。その点では、若年層の喫煙率の低下、飲酒量の減少、トレーニングジムのブームなどはよい傾向ですね。

 第二には、国が国民一人ひとりの健康医療情報を電子データ化して統合し国と国民の共有財産とすることです。そうやって作成したビッグデータは、個人、医療従事者、科学者、医療政策をつくる者などにとって、きわめて有用です。今、国はマイナンバーカードを使ってこのような仕組みをつくろうとしていますね。一部のマスコミや政党が執拗にネガティブキャンペーンを張っていますが、リスクとベネフィットを客観的に判断すべきでしょう。もちろん、個人の健康情報というプライバシーが流出しないようにセキュリティー対策はしっかりととられねばなりませんし、データを収集する政府が国民に信頼されている必要があります。

 第三には、医療制度を改革して、新しい「かかりつけ医」の仕組みを導入することです。これは、以前に『大学病院革命』と『e-Health革命 ITで変わる日本の健康と医療の未来』(ともに日経BP社)という本で詳しく述べましたので、興味のある方はぜひ読んでみてください。簡単に説明すると、普段は自宅の近くにいる「かかりつけ医」と連携して健康管理を行い、重大な病気にかかったら、かかりつけ医が持つ診断データを専門治療のできる大型病院施設と共有し、そこで適切な治療を受けるような仕組みです。かかりつけ医と大型病院施設が患者の電子カルテを共有できれば、大規模病院は再編成され、日本の医療資源はより効率的に運用できるようになります。そのためには、現状、医師ごとに異なるカルテの書式を、教科書的に統一する必要もありますね。

 

過去には自動車や電気製品の製造で成功を収めたが……

 

 日本人は繊細で手先が器用な民族ですから、何かと「物の品質」で勝負したがります。「ものづくり」という言葉も好きですよね。しかし、「高品質の物をつくって広告を打てば大量に売れる」という旧時代のメソッドは、もはや世界には通用しません。すでに、高品質の物は日本以外の国でも生産できるようになっています。実際、電化製品や電子部品などは、中国、台湾、韓国にシェアを大きく奪われてしまいました。工業製品の製造は、かつての日本がアメリカに対してそうだったように、やがて後発国や後発企業に追いつかれる宿命にあります。自動車や電子部品の分野で日本が再逆転することは困難でしょう。

 日本がすでにあるものを、より薄く/より小さく、コツコツとただ改良していた間、間に世界最大の経済大国であるアメリカは、最先端技術研究に国を挙げて莫大な投資を行っていました。そして、その研究成果でソフトウエアという「形のないもの」を生み出し、人々の生活を一変させる「次世代ビジネス」で世界シェアを抑え、世界経済における支配的な地位をキープしています。AI関連事業、AR/VR、バイオテクノロジー産業、ヘルスケア産業、宇宙関連事業、クリーンエネルギー開発産業などなど、名だたる企業があるのがアメリカです。かつて世界経済の第一線にいた日本企業は、例えばApple社のiPhoneの部品などを製造する裏方として、かろうじて存在している状況です。過去に成功を収めた自動車や電気製品を地道に改良し続けることも大事でしょうが、日本はもっと「次世代ビジネス」に注目し、世界にイノベーションを起こるための研究に投資をしておくべきでした。

 

日本の次世代ビジネスは?

 

 これからの日本が世界シェアをとれる可能性がある「次世代ビジネス」は何でしょうか? 現在の世界のニーズは何だと思いますか? それが、私がこの記事の冒頭で述べた地球規模の保健医療の課題である高齢化とそれに伴って増加する人々の慢性疾患です。

 日本の医療と介護をとりまく現状は危機的と言ってよいのですが、実はチャンスでもあります。生活習慣病のまん延、少子高齢化、認知症、皆保険制度、医療人材不足などは、長寿を獲得した21世紀の人類には、必然的に起きる問題だからです。日本はいち早くこの課題に直面し、その対策の先陣を切る状況に置かれているのです。日本は「医療課題先進国」なのであり、それは世界に対する大きなアドバンテージと言えるでしょう。ただし、課題を抱えているだけでは意味がありません。重要なのは、スピード感を持って課題に取り組み、具体的な解決策を立案し、それを実際の医療現場に導入して、一つの「モデル」として確立することです。具体的にはまず、国民の健康医療情報のビッグデータ化を国家戦略とし、もっとスピード感を持って進めるべきです。

 そのためには、既存の医療システムに根づいた既得権益の壁を乗り越え、グローバルな視点から日本の立ち位置を見つめ直し、10年、20年先を見据えた長期的な視野に立つ必要があります。日本人は潔癖症のきらいがあって、新しいものが出てきたときにそのマイナス面を過剰に意識します。そのため、優れたアイデアがあっても、実行に踏み切れないことが少なくありません。確かに、新しい取り組みにはリスクが伴います。しかし、リスクばかりを過度に警戒していては、世界を変革するようなイノベーションは生まれません。これがアメリカでは、例えば、生成AIなどはすでにアメリカのテック企業が主導権を握りつつあります。彼らも生成AIのリスクを認識していますが、それ以上のベネフィットを重視し、10年先を見据えて前に進むことを選択しています。おそらくこのまま、アメリカがAIビジネスの覇権を握るでしょうね。自動運転技術の開発でも同様のことが起きています。

 新しいアイデアのリスクとベネフィットを冷静に比較し、リスクを最小限に抑える仕組みを整えながら研究開発を進め、スピード感を持って実用化する。イノベーションを実現するためには、日本人一人ひとりに意識改革が必要です(たいていの場合、物事に反対するのは国民ですから)。私は、医療従事者や政策決定者に、既存の利害関係にとらわれない、プロフェッショナルとしてのプライドと見識にもとづいた決断を期待しています。日本独自の医療費抑制モデルを構築できれば、それは「健康大国日本モデル」として世界各国がこぞって求めるでしょう。世界のニーズを捉えることができれば、このモデルは単なる制度設計にとどまらずそれ自体が日本の新たな知的財産となり、日本の「新しい商品」となるはずです。

 

「外から見る目」で世界のニーズを捉えよ

 

 ここまで高齢化と慢性疾患について述べてきましたが、病気に関する世界のニーズはまだあります。世界のどんな人々がどんな薬を欲しがっているのかは、相手の立場になってみないと感覚的にはわかりません。例えば、ポリオウイルスによって発生する脊髄性小児麻痺(ポリオ)という疾病は、現在の日本ではワクチン接種によって患者の発生はありません。しかし、アフガニスタン、マラウイ、モザンビーク、パキスタン、マダガスカル、コンゴ民主共和国などでは、いまだに感染が発生しており、世界保健機関(WHO)は、2014年5月5日から現在に至るまで、ポリオウイルスの国際的な広がりが「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC、Public Health Emergency of International Concern)」であることを宣言しています。日本人の多くが「遠海の向こうの病気」と認識しているマラリアにしても、2022年の推定感染者は約2億4900万人、死亡者は60万人もいます。たまたま現在の日本に入ってきていないだけで、これは「人類最悪の健康問題」です。ちなみに、マラリア原虫を媒介するのは熱帯のハマダラカですが、地球温暖化が進行していますから、そのうち日本にも入ってくるでしょう。マラリアにかぎらず、デング熱などのほかの熱帯病でも同様です。決してひとごとではありません。

 日本の製薬企業は優秀で、実はワクチンや治療薬の元になる「シーズ」をたくさん持っています。これは、アメリカやスイス、フランス、イギリスなどの大手製薬企業と比べても遜色ありません。ただ、生み出すシーズの多さの割には、経営的な決断力が乏しいという弱点があるように私には感じられます。経営上のリスクが少しでも見えたら、研究開発をストップして「お蔵入り」にしてしまうのです。「お蔵入り」になっているものの中には、別の使い方によっては有効性を発揮し、大きな利益を生むものもあるはずです。これは大変もったいないことです。

 病気は人の都合を考えません。新型コロナ禍でみなさんもご承知でしょうが、誰もがどこにでも行き来するグローバル社会では、何も対策をうてないでいると病原体はどこまでも広がります。そのようなことが起きる前に、製薬企業は、ワクチンや治療薬を前もって開発しておかねばなりません。世界中に膨大な種類の病気があるのですから、新薬開発にビジネスの可能性はいくらでもあります。日本国内だけを見ているのではなく、世界の枠組みで保健医療を考える、例えば、北里柴三郎のような人物が、現在の日本にもう少しいてくれるとよいのですが……。たしかに研究開発には相応のリスクがありますが、「失敗した責任を負いたくない」「海の向こうの病気など日本には関係ない」などといって手をこまねいているうちに、病気はまん延します。

 日本が持つ優れたシーズを世界に積極的に提供することを目的に、2012年11月、一般社団法人グローバルヘルス技術振興基金(GHIT Fund)というものが設立されました。これは、日本と海外の製薬企業、研究機関、大学の共同研究開発に投資することで、日本の有する医薬品シーズなどを開発途上国向けの感染治療薬、ワクチン、診断薬の製品開発に活かすことを目的とする国際的な非営利組織です。私はそこで2013年から2018年まで第一期の会長兼代表理事を務め、国内の大手製薬企業や政府、研究機関など連携して、開発途上国でまん延するマラリア、結核、顧みられない熱帯病(フィラリア症、狂犬病、ハンセン病など、熱帯地域の貧困層を中心にまん延している感染症疾患)などの感染症を制圧するためのスクリーニングプログラムを実施してきました。

 GHIT Fundは理事会メンバーの約半数が外国人です。会議も申請書もすべて英語で、審査は日本人と外国人とが半分ずつ行っています。こうすることによって、内向きの傾向がある日本人でも常に自らを世界の中に置いて物事を考えるようになり、意識が外向きに変わってくるのです。元ビル&メリンダ・ゲイツ財団もGHITに参加しています(GHIT Fund設立の構想に財団がかかわっています)。彼らの存在は宣伝効果が大きく、また、連携してくれた大学、研究所、企業のスタッフに「私たち日本人も世界につながっている」という意識が芽生えたようでした。現在、GHITには日本のメジャーな製薬企業6社が1年1億円でコミットしています。これらの企業がふだん使っている国際宣伝広告費に比べれば、この1億円は安いものでしょう。日本が持つ優れた医薬品シーズを引き出し、それを世界に約20あるProduct Development Partnersという医療研究開発を専門に行っている国際NGOに託す。その結果、ヒットするものがあれば、後は自社開発して導出してもらう。企業が個別に動くよりもプロセスはずっと早いですし、社外からの予算がつけば弾みにもなります。

 GHIT Fund自体は投資による金銭的なリターンを求めていませんが、製品開発の進捗や成果を投資のリターンとしています。現在、GHITからの投資を受けて、日本の科学や創薬技術を活用した新薬開発案件がすでに40件以上進んでおり、実際に、新薬も開発されています。例えば、世界74カ国で流行し、感染リスクがあるのは6億人、感染者は2億人、うち1億2千万人で病状が進行し、年間に毎年2万人が死亡する住血吸虫症という寄生虫病があります。GHITが2013年から9年間にわたって開発支援してきたその小児用の治療薬「アラプラジカンテル」は、2021年11月にⅢ相試験が完了し、有効性・安全性ともに良好な結果が得られています。今後、アフリカを中心とする5000万人以上の就学前児童に対する新たな治療オプションとなるでしょう。このような成果や実績が評価され、GHITにはステークホルダーたちからさらなる支援が集まっています。

 日本本発の優れた医薬品を実用化し、先進国に対してはある程度の値段で販売する。新興国に対しては国際機関に買い上げてもらって無料配布する。そうすれば、最近は売る物がなくなってきた日本が再び世界で稼げるようになるでしょう。また、新興国での日本の評判も大きく上がるでしょう。新興国の子どもたちが大きくなった時に、「小さいころ、日本の薬に命を救ってもらった」と感謝してくれるようになれば、それが日本という国の強力な「ブランド」となり、日本は再び世界で存在感を発揮するようになるはずです。

主張<8> 高齢化・認知症先進国であることは日本のアドバンテージ

日本を凋落させている原因

 

 日本が抱える大きな問題の1つが、この30年間、主要国の中で日本の経済だけが成長していないという事実です。成長していないどころか、衰退のトレンドにあります。国や地域の生産性の高さの目安となる一人当たりの名目GDPの推移を見ると、日本は2001年に世界5位であったものが、その後、順位を下げ続け2024年には何と世界39位。すでに、お隣の韓国(33位)や台湾(37位)にも追い抜かれてしまいました。加えて、IMFが今年の10月に出した世界経済見通しのレポートでは、「日本の1人あたり名目GDPはさらに減少する」ということですから、日本の凋落はとどまるところを知りません。

 日本を凋落させている原因のいくつかは、すでにこのブログでも述べてきました(例えば、主張<1> 常に「なぜか?」を考えよ)。一つには、グローバル社会の中で予測のできない大きなうねりを見せる世界経済に、日本の社会や産業の構造がまったく対応できていないということ。毎回のように言っていますが、「タテ社会の終焉」ですね。そして第二には、日本が世界一の高齢化社会になっているということ。これが今回のイシューです。

 

世界1位の高齢化社会

 

 この100年間、生命科学や医学の進歩、そして多くの臨床経験の蓄積によって、人類は飛躍的に長寿化しました。人が、より長い時間その人生を謳歌できるようになったことは、基本的にはよいことです。しかし、女性は60歳を、男性は70歳を過ぎたくらいから、生物学的には体が弱くなってきて、認知機能なども衰えはじめます。

 国の人口における高齢者の割合が増えると、年金・医療・介護などを支える財源が不足し、労働資源の問題も発生し、経済先進国であれば経済成長が止まってしまいます。今の日本が陥っているのはまさにこの状態ですね。

 日本の国民の平均寿命は世界1位。手元のデータを見てみると、日清戦争が行われていた1890年代の日本人の平均寿命は男女ともに40歳代だったようです。それが1950年代になると男女共に60歳代となり、直近の2015年では男性80.8歳、女性87.0歳となっています。どんどん伸びていますね。今や、「人生100年時代」などと言われているのは、みなさんご存じのことでしょう。

 私も現在は88歳と、後期高齢者となって久しいのですが、毎日、ものを考えながら仕事をしているおかげか、それなりに元気に働いています。90歳近くの人間が働いているなんて、一昔前の社会の常識では、考えられないことかもしれません。現在、日本国内総人口に占める65歳以上の割合は約30%。日本というのは、実に国民のおよそ3人に1人が高齢者である国なのです。

 

認知症のコストは膨大

 

 人は高齢になると、さまざまな病気の問題が起きるようになります。その代表的なものの1つが「認知症」です。日本における認知症に関係するコストは、近年ではGDPの4%、約16兆円にものぼるといわれています。ちなみに、認知症コストの約50%が、主として女性が家族などをサポートするのにかかる表面に出てこないコストとされています。この数字は決して無視できません。認知症が日本の経済成長を押し下げている要因の一つであることは確かです。

 日本は過去30年にわたって経済成長しておらず、すでにGDPの200%を超える負債を抱えていますから、医療・介護・社会保障の予算は増額が難しい状況にあります。そのような状況下で、2025年には日本の認知症患者は700万人にまで増加し、65歳以上の人口の約3分の1が認知症予備軍となると推定されています。日本はこの課題に対して、早急に対策を講じなくてはいけません。

 

日本発の高齢化・認知症対策

 

 進行する社会の高齢化や増加する認知症患者に対して、さまざまな取り組みがすでに行われています。みなさんもニュースなどで耳にしたことがあるかもしれません。例えば、全国津々浦々に店舗を展開するコンビニエンスストアのネットワークを、高齢者宅への日用品などの配送に活用するビジネスが始まっています。同様の取り組みは、国内のほぼすべての地域に展開している郵便局でも可能かもしれません。コンビニエンスストアと郵便局のどちらも、今後増加が予想される高齢者に対応するための重要なインフラとして役立つでしょう。

 金融機関の窓口も、頻繁に来店する高齢者に特別な配慮をするようになってきました。近年は認知機能の衰えた高齢者をターゲットにした特殊詐欺が横行していますから、これに対応するためです。

 認知症については、コミュニティーにおける認知症の支援者を養成する「認知症サポーター」というプログラムも行われています。養成講座を受講して認定された「認知症サポーター」は、認知症の疑いがある人に注意をうながし、介護者と連携して認知症患者へのケアを行います。このプログラムは非常に評判がよくて、2022年1月の時点ですでに1364万人のサポーターが生まれています。現在、これを日本発の認知症対策として世界展開することが考えられています。

 AIを搭載したロボットの活用も検討されています。認知症の進行を遅らせるためには、患者に外部から認知的な刺激を与えることが重要だとされています。単なる機械的な介護ではこれは難しいですが、例えば会話ができるAIを搭載したロボットのように、人間的なインターフェースを備えたものなら、患者に社会的な刺激を提供することが可能です。AIに関しては、近年、OpenAIが開発したChatGPTのような生成AIが登場しています。私も試してみましたが、まるで人間のように自然な対話ができ、数年前には考えられなかった技術の進歩に驚かされました。生産は終わってしまいましたが、ソフトバンクの「ペッパー」のようなロボットに生成AIを搭載し、より人間に近いコミュニケーションで患者をサポートすることで、患者の生活の質を向上させたり、介護のコストを削減したりすることが期待されます。

 ただ、これらの取り組みは、まだテストマーケティング、調査研究の段階であり、社会全体の連携やさらなる展開にはもう少し時間がかかりそうです。

 

サンプルの多さを活用して「認知症ビッグデータ」をつくれ

 

 2013年にロンドンで開催されたG8サミットをきっかけに、2014年4月、世界認知症審議会(WDC:World Dementia Council)が設立されました。世界各国の産官学民あらゆるメンバーが参画し、グローバルレベルで認知症対策を促進することを目的とする独立・非営利の団体です。議長国イギリスのデーヴィッド・キャメロン首相(当時)は、「イギリスは認知症対策に国を挙げて取り組みます」ということを、世界に宣言した形になります。

 私もメンバーに招かれ、副議長(Vice Chair)に就任しました。イギリス大使館から突然、「WDCを立ち上げました。ぜひ黒川博士にもご参加いただきたい」という内容のメールが届き、要請されたのです。以前から私が、「認知症対策には早期診断が大事で、それにはバイオテクノロジーだけでなく、デジタルテクノロジーやAIテクノロジーが重要である」と、主張していたからでしょうね。私は、世界各地で開催されるWDCでも同様の提言を続けました。

 デジタルテクノロジーはバイオテクノロジーよりもずっと急速に進歩しています。近年では、人間の健康にまつわるビッグデータを容易に入手・解析できるようになり、これまで以上の多くの相関関係・因果関係を述べられるようになってきました。
年齢、家族歴、遺伝的背景、教育、運動、喫煙、飲酒、睡眠など、認知症を発症する要因には多くの仮説があります。これまではこれらのファクターを個別に検証しなくてはなりませんでしたが、ビッグデータを網羅的に相関解析すれば、さまざまな仮説をまとめて検証できるでしょう。これまで思いつきもしなかった仮説が生まれ、認知症の予防法や治療法の開発が飛躍的に進むかもしれません。

 2020年、これらの私の主張を、イギリスの週刊新聞「The Economist」の記者が取材しにきました(2020年8月29日号)。なかなか勉強しているなと感心したものです。

「The Economist August 29th 2020」

 なぜ私が認知症対策についてこのような主張をしてきたかというと、専門としている腎臓病の分野で似たような経験をしているからです。慢性腎不全の透析治療の分野では、30年ほど前から透析に関するデータを世界中から集め、分析するという長期の臨床研究が行われてきました。当時は「臨床の質問」を公募するというものでしたが、これは現在「ビッグデータ」と呼ばれるもののはしりですね。そしてこの研究は、例えば、「日本の慢性腎不全の治療成績が欧米よりよいのは、シャントの質がよいからである」といったように、慢性腎不全の治療成績の向上やコスト分析に大きな貢献してきました。ビッグデータ(のはしり)の分析で、ブレイクスルーが得られたのです。

 先に述べた通り、日本は認知症先進国であり、大勢の患者がいます。これは、「認知症に関する大量の生データを持っている」ということでもあります。このビッグデータを活用しない手はありません。

 すでに、アメリカのデジタル企業は、人々の健康に関するビッグデータ収集を積極的に行っています。例えば、皆さんが腕に巻いているApple Watch。このスマートウオッチからは、心拍数、エネルギー消費量、血中酸素濃度、活動記録、睡眠情報といったさまざまな生体情報が長期的に収集されています。AppleはApple Health Studyと銘打って、収集したデータを研究機関と共に分析し、健康増進サービスをつくっています。

 

世界が日本に注目している今がチャンスである

 

 高齢化と認知症はあらゆる国で不可避な社会的なリスクです。世界の60歳以上人口は、2017年の約9億6000万人から、2050年にはその2倍の約21億人になると予想されています。そして、2015年時点で世界には約4680万人の認知症患者がいましたが、予測ではこれが20年ごとに倍のペースで増えていき、2030年には7470万人、2050年には1億3100万人になるといわれています。

 2015年時点における認知症に関連する医療・介護コストは、世界全体で約8180億ドル、2030年には2兆ドルに達すると予測されています。この金額を一国の経済規模に置き換えると、世界第18位に相当します。

 そしてやはり、認知症患者の介護はローコストで家族が担うケースが多く、とりわけ女性が負担をします。今まさにこのとき、世界中で多くの女性が認知症の親や家族の介護を引き受けており、社会進出を断念しているのですね。また、介護によって失われる労働力は統計に反映されにくいため、この問題は潜在化しています。

 日本人の高い長寿率と、それを支えている食事・栄養・運動などに関する知恵と経験は、すでに世界中の科学者や医師に知られており、リスペクトされています。経済先進国であると同時に高齢化先進国でもある日本が、今後、高齢化と認知症の問題にどのような対策を講じるのか、世界が期待と関心を寄せて注目している状況です。近年、日本は国際社会で十分な存在感を発揮できていませんでしたが、世界に注目されている現在の状況は、日本にとって大きなチャンスと捉えるべきです。

 日本が率先して国民の医療ビッグデータを収集・活用し、「成熟した長寿社会」という新たなモデルを世界に示す。世界に先駆けてテストマーケティングを行い、高齢化や認知症のコストを削減するノウハウで世界シェアをとる。そうすれば、30年元気がなかった日本が再び主要国の中で存在感を取り戻すことも可能である――為政者や起業家の方々には、そういう感覚をぜひ持ってほしいと思います。

 来年から私は、認知症に関する新たなプロジェクトをはじめる予定です。進展があったところで、またみなさんにお知らせする機会もあるでしょう。楽しみにしていてください。

主張<7> 日本の国会議員の世襲率は世界で何番目か知っていますか?

第50回衆議院選挙が行われました

 

 9月末の自民党総裁選で石破茂さんが新総裁に決まりました。すると途端に衆議院が解散し、衆議院選挙が始まりましたね。長年にわたり党内野党状態だった石破さんが新総裁になるところに、自民党のしたたかさを見ました。自民党内の最大派閥勢力だった安倍派が「裏金問題」で国民を怒らせてしまいましたから、自民党は選挙で勝つ/大きくは負けないことを考えて、安倍派から距離のあった石破さんを総裁にしたのでしょう。むかし三木内閣ができたとき(1974年・昭和49年~1976年・昭和51年)も同じようなシチュエーションだったと記憶しています。いわゆる「田中金脈事件」で田中角栄さんの内閣が総辞職したとき、やはり自民党は主流派と距離があった三木武夫さんが総裁になりました。

 さて、そのような情勢下で行われた今回の解散総選挙ですが、蓋を開けてみれば与党の大敗です。私がこのブログを書いている10月28日の早朝の時点で、与党は215議席(自民191・公明24)、野党その他が250議席(立民148・維新38・国民28・れいわ9・共産8・参政3・保守3・社民1・無所属他12)という数字が出ており、自公で過半数の233議席を割り込んでいます。特に自民党は選挙前勢力で247議席あったものが200議席を下回りましたから、大惨敗です。自民党執行部は、野党の準備が整う前に急いで解散すれば、選挙で有利になると考えたのでしょうが、その目論見は大きく外れてしまいました。

 これから自民党内で「なぜ急いで解散したのか」「裏金議員を非公認にしなければもっと通っていたのではないか」「非公認候補になぜ2000万円を支給したのか」という執行部の責任を追求する動きが起きるでしょう。また、石破さんは惨敗の責任をとるのか、かりに石破さんが辞めるなら誰が新しい総裁になるのか、自公で過半数がとれていないなら連立政権をどうするのか、多数派をどう確保するのかなど、政権の問題も山積しています。可能性は極めて低いでしょうが、数字の上では非自民連立政権も可能な状況です。これから補正予算の編成が行われますが、いずれにしても日本の政治はしばらく不安定になるでしょうね。個人的には、今回の選挙戦のテーマがいわゆる「裏金問題」に終始し、肝心要である「国をどうするのか」という政策での討論がほとんど行われていなかったことが大変気になっています。

 

日本の国会議員の世襲率は世界で何番目か

 

 ところでみなさんは、日本の国会議員の世襲率は世界で何番目だと思いますか? 世襲率は何%くらいでしょうか? 時間を与えますので、ちょっと考えてみてください。

 

<……考える時間……>

<……考える時間……>

<……考える時間……>

 

 いかがでしょうか。歴代の総理、大臣、知り合いの議員……改めて思い浮かべてみると、世襲の方は案外多いように思えてきませんか? 選挙に出た際に公式ホームページに家系図を掲載して、積極的に「世襲」をアピールしていた方もいましたよね(その方は現在、衆議院議員です)。

 日本の世襲議員については、ペンシルバニア大学の政治学者Daniel M. Smithさんが書いた『Dynasties and Democracy: The Inherited Incumbency Advantage in Japan (Studies of the Walter H. Shorenstein Asia-Pacific Research Center)』という本の中で、膨大なデータと共に論考が行われています。非常によい本ですので、みなさんもぜひ読んでみてください。さて、この本の中には、各国の世襲議員の割合が表で示されています。それによると、国会議員の世襲率が高い国は上から順に、1位タイ、2位フィリピン、3位アイスランド、ときて4位が――日本なのです。時期によって変動はありますが、国会議員の世襲率はタイとフィリピンが約40%で、アイスランドと日本が約30%といったところです。日本の約30%は全体平均で、自民党に限定すれば世襲率は40%近くあるでしょう。

 

日本の常識は世界の非常識

 

 他国に関して言えば、例えばドイツ、韓国、アルゼンチン、フィンランド、カナダ、スイスなどに世襲議員はほとんど見られません。政治の名門一族などの印象が強いアメリカやイギリス(下院)でも、世襲議員の割合はわずか5~10%です。日本の政治だけを見ていると、「国会議員という職業は世襲されるもの」というイメージが強いかもしれませんが、それは世界の政治では決して当たり前のことではないのですね。そもそも、民主主義は世襲とは対極にあるものです。実際、日本をのぞくほとんどの民主主義国家では、政治が成熟するにつれて世襲の割合は減少し、世襲議員が10%を超えることはまれです。

 割合は少ないといっても、理想と能力を持ち、親と同じ政治という職業を目指す人はもちろんいます。しかし、その場合であっても一般的に「親の地盤の引き継ぎ」は行われません。かりに政治家の子息子女が選挙に立候補した場合も、まっとうな民主主義国家、例えばイギリスでは、二大政党の方針として、大部分の候補者は地元に縁のない選挙区から立候補することになっています。日本のように親の地盤を無条件に引き継いで出馬できませんから、そもそも世襲が難しい仕組みになっているのですね。党本部は、候補者個人の資質を重視して選挙区を決めます。

 

世襲の功と罪

 

 もちろん、単純に「世襲=悪」と断じることはできません。子どもの頃から親の仕事を見ていれば、政治家に必要なスキルについて前もって学べます。世代をまたいで難しい政治課題に取り組むこともできるでしょう。また、親の人脈が使えますし、引き継いだ地元選挙区の有権者の支持も得やすいですから、比較的スムーズに政治活動が行えるという利点もあります。

 その一方で、世襲には資質や能力のない者が国会議員になってしまう・政治の要職に就いてしまうという弊害もあります。私たちはそれを何度も目の当たりにしていますよね。地元の縁故にがんじがらめになった国会議員に、国と国民にために本当に必要な政策がつくれるのかという懸念もあるでしょう。さらに、そのような国会議員がのさばることは、必然的に真に能力があっても政治的・経済的な資源を持たない人材の活躍を妨げることにもなります。それは、日本の国と国民にとって大きな損失です。そもそも民主主義が何たるかを考えれば、「世襲には功も罪もある」とはいっても私には「罪」の方が大きいような気がしてなりません。みなさんはどう思われますか?

 世界の民主主義国家に倣うなら、日本にも非世襲議員がもっと増えるべきでしょう。そのためには、もっと大勢の非世襲人材が立候補し、縁故ではなく個人の資質や能力で公平に競い合う選挙が行われなくてはなりません。しかし、日本の公職選挙法や公務員法の下では、公選職や公務員の者は立候補にあたって辞職しなくてはなりませんし、終身雇用・年功序列がいまだ多い一般企業に務めるような人も、その会社でのキャリアの途中で国会議員に転職することには抵抗があるはずです(私はこれをかねてより「タテ社会の終焉」と呼んでいます)から、そもそも世襲人材以外の人々には立候補のハードルが高いのですね。

 つまり、日本が世襲議員の割合を他の主要な民主主義国家並みにするためには、法律や社会システムから変える必要があるということです。ただ、日本という国は生半可のことでは「変わらない」でしょう。現在権力を握っている人々の多くが、当の世襲議員なのですから。議会制民主主義を歴史的に発達させてきたイギリスのように、主要政党が自発的に「世襲を減らしましょう」と取り組めるとよいのですが……。

 

変わらない日本

 

 以前の記事にも書きましたが、日本はなかなか「変われない」国です。国会事故調の委員長として報告書をまとめる仕事をしている中で、私たち国会事故調のメンバーはそのことを思い知らされました。このことは先日、毎日新聞で記事にもなりました(毎日新聞デジタル2024/10/20配信:これでいいのか国会議員? 福島第1原発・事故調メンバーの嘆き)。

 これは、何も近年にはじまったことではありません。戦前からそうなのです。朝河貫一という私の尊敬する歴史学者がいます。1907年に日本人として初めてイェール大学で教授となった方です。

 朝河貫一は、『日本の禍機』(講談社学術文庫)という本の中で、日露戦争に勝利した後の日本の国家のありさまに警鐘を鳴らしています。そして、大きな戦争を経験しても「変わらない」日本が進むであろう道を正確に予測しています。この本が書かれたのは1908年(明治44年)です。つまり、日米開戦の33年前に、アメリカという国と太平洋をめぐる国際政治動向ついて詳細に解説し、「満州における日本の行動には正当性がない」と政策転換を訴えているのですね。朝河貫一は、太平洋戦争が始まるずっと前から、日本政府が政策を変えなければ、国際社会での信用を失い、将来的には中国の恨みを買い、必ずアメリカと衝突して負けるというところまで、看破しているのです。朝河貫一は長いことアメリカにいた方ですから、外からの目で日本という国を客観的に見られたのでしょうね。

 結局、朝河貫一の提言を受けても「変わらなかった」日本が、その後に起きた戦争で多大な犠牲を払ったのは、みなさんもご承知の通りです。かつての戦争、近年では福島第一原発の事故、新型コロナウイルスのパンデミックetc. いずれも日本が変わる契機になり得る、大きなインパクトの出来事でした。しかし、日本社会は、国のかじ取りをしている人たちは、私たち日本人のマインドセットはこれらの出来事を経て「変わった」でしょうか? みなさん、考えてみてくださいね。

 

若いみなさん、投票に行きましょう!

 

 日本が変わるために、私たち一人ひとりにできることがあります。それは、「国政選挙で投票をするという」ことです。選挙権を行使して自分の代行者を選ぶことは、現代の民主主義国家における常識であり、国民の基本的な権利でもあります。それにもかかわらず、日本の選挙における投票率は低く、特に日本の将来を担う若者の投票率が振るっていません。NHKの報道によれば、今回の衆議院選挙の推定投票率はなんと53.84%前後になる見込みということでした。有権者の半分が総選挙に行っていないということになります。これは日本にとって極めて大きな問題です。

 そもそも全体の投票率が低ければ、世襲議員や利害関係のある特定の団体を代表する議員が選出される傾向が強くなります。それでは、一般国民の声は政治に反映されにくいでしょう。日本の有権者にとって政治家という存在は、「地元・組織に金を落としてくれる人」であり、地元・組織のために働く「先生」です。海外のように「議員は自分たちの代弁者である」という認識は薄いのでしょうね。ですから、選挙前に政党や候補者が掲げた公約が選挙後に守られなくても、誰も文句をいいません。政党や候補者も、選挙のときだけ耳ざわりのいい公約を掲げますが、基本的に言いっぱなしで、後にそれをほごにしても誰も責任をとりません。公約が達成されたか、達成できなかったなら何が原因か、検証・改善もされません。

 若者の投票率が低いということは、若者を代表する存在が少ないということです。高齢者ばかりを優遇する「シルバー民主主義」などと揶揄されていますが、高齢者に選ばれた為政者たちが高齢者の方ばかりを向いて政策をつくるのは当たり前です。

 このようなことで、はたして日本に本当の民主主義があると言えるでしょうか? みなさん、どう思いますか?

 日本を変えたいと思うなら、特に若者のみなさんは選挙に行って必ず投票するように。「自分たちの将来がかかっている」という当事者意識を持って、選挙に参加してください。議員はあなたたちの代行者であることを、改めて認識しましょう。選挙区に自分を代行するような候補者がいないように思える場合でも、棄権をしたり白票を投じたりしてはいけません。国をよい方向に変える本当の民主主義は、有権者が選挙にきちんと参加することによってしか成り立ちません。有権者が変わらなければ、政治も国も変わりません。

 お若いみなさん、先日の衆議院選挙には行きましたか? 行かれた方が大半だと思いますが、もし行かなかったという方がいれば、次回から必ず投票に行ってください。自分の考えの代行者を選ぶのが選挙です。この大事な権利をちゃんと行使しましょう。

主張<6> 書を読み、外へ出よう

日本人の6割は月に本を1冊も読まない

 

 先日、文化庁が結果を発表した令和5年度実施「国語に関する世論調査」に、大変ショッキングなことが書かれていました。なんと、日本人の60%以上が月に1冊も本を読まない、いうのです。以下のリンク先にPDFがあります。その中の「Ⅲ 読書と文字・活字による情報に関する意識」の項目をみなさんもぜひご自身の目で確認してみてください。

文化庁:令和5年度「国語に関する世論調査」の結果について
 ここに示されているのは、全国16歳以上の個人6000人を対象とした調査(有効回収数3559人)で、漫画・雑誌を除く書籍(電子書籍含む)を1カ月に「1冊も読まない」と回答した人が62.6%、「1、2冊」が27.6%、「3、4冊」が6.0%、「5、6冊」が1.5%、「7冊以上」が1.8%ということです。5年前の調査では、「1冊も読まない」と回答した人が47.3%だったそうですから、たった5年で1か月間に本を1冊も読まない人が15.3ポイントも増加しています。

 「0冊」と回答した人に男女の差はほとんどなく、年代別の分析ではいずれに年代でも男女問わず「0冊」が最多であったそうです。つまり、年代や地域によらず大半の日本人が本を読まなくなったということですね。以前から、知り合いの編集者に「コミック以外の本がどんどん売れなくなっている(=日本人が本を読まなくなっている)」と聞いていましたが、ここまでとは思いませんでした。

 

日本の大学生も本を読まない

 

 今回の文化庁の発表した調査結果では「1か月に読む本の冊数」について年齢や職業別のデータが示されていないのですが、「本を1冊も読まない人が62.6%」ということですから、気になるのは高等教育段階にある大学生のことです。大学生こそ本をたくさん読まなければいけないはずです。そこで、日本の大学生の読書量について何かデータはないか調べてもらったところ、全国大学生活協同組合連合会が学生生活実態調査で全国の大学生の読書時間に関するデータをとっていました。

 その調査によれば、2015年から2023年まで1日の読書時間「0分」の学生は45~50%で推移しているということです。文化庁の調査と質問文は異なりますが、この調査で示された「日本の大学生の40~50%が1日の読書時間ゼロ」という事実も驚くべき話です。大学生協連によれば、「読書時間ゼロ」について1977年は13.2%だったものが、長期トレンドでここまで増加してきたということです。私が東大で教えていた頃の大学生なら誰しもに「座右の書」というものがあったはずですが、先の調査結果を鑑みるに現在はそのような書を持っている学生の方がマイナーなのでしょうね。

全国大学生活協同組合連合会:第59回学生生活実態調査

 

「活字離れは起きていない」とはいうが

 

 読書離れのトレンドが起きている原因について、文化庁は「スマートフォンやタブレットの利用が読書の時間に取って代わっているのではないか」と推測しています。これをもって、「日本人に読書離れが起きていても活字離れは起きていない。だから大げさに騒ぐことはない」とする意見もあるようですが、これは間違いでしょう。危機感を持ってもっと騒がないといけません。

 活字を読むにしても、「何を読んでいるか」が重要です。学生たちが手に持っているスマートフォンやタブレットに表示されているネットニュース、ウェブサイトの記事、SNSの投稿などは、短いセンテンス/短いパラグラフで構成された文章です。本に置き換えると、1ページにも満たないか長くてせいぜい数ページにしかなりません。また、多くの文章は万人に読まれるように「わかりやすく」「単純化して」「刺激的に」書かれています。そのようななジャンクな文章を次々読んだからといって、高等教育段階の学生が身につけるべき教養の足しに果たしてなるでしょうか? わかりやすく書かれた短い文章だけを読んでいたら、難解なテキストをわからないなりに時間をかけて読み切る持久力も身につきません。深く思索することもできないでしょうね。

 

アメリカの大学生が読んでいる本

 

 一方で、アメリカの大学生はむかしから圧倒的に読書をしています。私もアメリカの大学で学生を教えていた時期がありますが、誇張でも何でもなく日本の大学生のゆうに10倍は本を読んでいる印象です。そして、特に彼らは1~2年生のときにリベラル・アーツの課題図書として数百冊にもなる膨大な数の「古典」を読んでいるのですね。

 例えば、アメリカ TOP10大学の課題図書ランキングは以下のようなものです。このあたりは、どの大学のどのコースでも鉄板でしょう。

 

【アメリカトップ10大学の課題図書ランキング】

  1. Republic(国家):Plato(プラトン)
  2. Leviathan(リヴァイアサン):Hobbes, Thomas(トマス・ホッブズ)
  3. The Prince(君主論):Machiavelli, Niccolò(ニッコロ・マキアヴェッリ)
  4. The Clash of Civilizations(文明の衝突):Huntington, Samuel(サミュエル・ハンチントン)
  5. The Elements of Style(英語文章ルールブック):Strunk, William(ウィリアム・ストランク)
  6. Ethics(倫理学):Aristotle(アリストテレス)
  7. The Structure of Scientific Revolutions(科学革命の構造):Kuhn, Thomas(トマス・クーン)
  8. Democracy in America(アメリカの民主政治):Tocqueville, Alexis De(アレクシ・ド・トクヴィル)
  9. The Communist Manifesto(共産党宣言):Marx, Karl(カール・マルクス)
  10. The Politics(政治学):Aristotle(アリストテレス)

 

 オープン・シラバスという世界中の大学のカリキュラムを集めたデータベースがあります。英語圏の大学生たちが課題図書としてどんな古典を読んでいるかをもっと詳しく知りたい方は、ぜひのぞいてみてください。

OPEN SYLLABUS
 検索すればこのOPEN SYLLABUSを元に書かれたさまざまな記事もヒットします。

Required College Reading List in 2024: Books Students at the Top US Colleges Read

These are the books students at the top US colleges are required to read

 これらの課題図書は毎回の講義の前に、自分で読んで内容を身につけておくことが最低限です。実際の講義では、その内容について学生同士がディスカッションを行うのが一般的です。日本の大学のように、ワンシーズンの講義中にたった1冊の本を先生と一緒にチマチマと読み進めることなどしません。流し読みや要約を付け焼き刃的にインプットしたのでは議論はできませんから、アメリカの学生は寝る時間も惜しんで猛烈に課題図書を読み、勉強し、リポートを書きます。日本からアメリカに留学した学生の多くは、アメリカの大学と日本の大学とが勉強の量も密度も次元がちがうことに驚くようですね。

 先に挙げたような古典はどれも、時代によらない普遍の価値を持ちます。読んだ者に、深い知識と教養、広い視野、時代の流れを理解する力、そして危機を乗り越えるための決断力を与える名著です。高等教育段階にある学生が必ず読むべきものでしょう。さて、日本の大学生のみなさんはどうでしょうか? 45~50%は読書時間ゼロだそうですが、ここに挙げられた1冊でもきちんと読んでいるでしょうか? 東京大学の学生はどうでしょう?

 

日本の大学生が読むべき黒川選書

 

 アメリカでは、1909年からハーバード大学の学長だったチャールズ・エリオットが『ハーバード・クラシックス』という50の名著からなるアンソロジーを刊行しています。また、1930年代からは哲学者であり教育者でもあるモーティマー・J・アドラーが古典を読み議論をする「グレート・ブックス運動」を推進しています。これらで選ばれている古典は西洋のものばかりですので、私たち日本人向けのものと、また、将来にわたって読んだ人に力を与えるであろう「現代の古典(古い本ばかりが古典ではない!)」を挙げます。これを「黒川選書」として、日本の学生は大学に入ったら、講義で取り扱うかどうかにかぎらず、まずは以下の本を読んでみることを提案します。

 

【黒川選書】

  • ・Ruth Benedict『菊と刀』1948
  • ・丸山真男『日本の思想』1961
  • ・中根千枝『タテ社会の人間関係』1967, 『タテ社会の力学』1978
  • ・Karel van Wolferen『日本権力構造の謎』1990、ほかの著書
  • ・Samuel Huntington 『文明の衝突』1996
  • ・Ivan Hall『知の鎖国』1997
  • ・池上英子『名誉と順応:サムライ精神の歴史社会学』2001, 『美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源』2005
  • ・John W. Dower『敗北を抱きしめて 増補版(上・下)』2004
  • ・Richard Samuels『3.11 震災は日本を変えたのか』2016
  • ・David Pilling『日本‐喪失と再起の物語:黒船、敗戦、そして3・11(上・下)』2014
  • ・三谷太一郎『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』2017
  • ・東谷暁『山本七平の思想 日本教と天皇制の70年』2017
  • ・R. Taggart Murphy『日本‐呪縛の構図:この国の過去、現在、そして未来(上・下)』2017
  • ・Gillian Tett『サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠』2019
  • ・Moises Naim『権力の終焉 (The End of Power)』2013
  • ・黒川清『規制の虜:グループシンクが日本を滅ぼす』2016

 

 この黒川選書に先の10冊を加えた約30冊は、大学1~2年生のうちに読んでしまうことです。いずれも大学や地域の図書館の蔵書になっていますから、「本代がないから読めない」ということにはならないはずです。英語で書かれたものは原著で読んでおくのがベストですが、ハードルが高ければまずは翻訳版でもいいでしょう。

 また、約30冊だけでは年に100冊以上を課題図書として読むアメリカの大学生の読書量には遠く及びません。30冊はあくまで初めの一歩として、以降は自身で読むべき本を探し、読書経験を深めていってください。最初の30冊をしっかりと読み切れたなら、みなさんにはもう読書習慣が身についているはずです。

 

書を読み、外へ出よう

 

 高等教育段階の学生の「教養としての読書」について書いてきました。古典を読むことで、教養が身につくだけでなく、世界のなかの日本が感じられ、みなさんの視野は広がるはずです。そして、この読書と平行して、かねてより学生のみなさんに私が勧めているのが、「自主的に海外に行く」ということです。これは以前に東京大学の入学式の式辞でも学生たちに呼びかけたのですが、在学中に思い切って「休学」をし、海外に出て、留学、企業・政府・NGOのインターンシップ、ボランティア、ギャップターム、ギャップイヤーなどなどを経験してみてください。目的は何でもいいので、とにかく海外に出て自力で生活してみることです。

 なぜ海外に出ることを勧めるかというと、外から日本を見ると日本という国の強さ/弱さを感じ取れるようになるのです。同時に、自分自身の強さ/弱さも感じられるようになります。すると、グローバル社会における日本の課題と自分自身の可能性に気づくことができるのですね。キャリアのロールモデルも、均一性の高い日本人1億2000万人の中から探すより、全世界の79億人の中から探す方が、見つかる可能性はずっと高いはずです。明治維新の頃、海外で学び、日本に戻った後に偉業をなした人々(例えば、福沢諭吉、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、津田梅子、エトセトラ……)のように、自分のやりたいことや成すべきこと、キャリアの道などがわかるようになるのです。

 つまり「書を読み、外へ出よう」ということです。本で得た知識と実体験で得た知恵が合わさって、はじめて人は世界に通じる真の教養人となります。

主張<5> Abraham Flexnerの”The Usefulness of Useless Knowledge”を読んだことがありますか?

科学研究の「神髄」


 このブログの読者には、科学研究に携わる方やこれから携わっていこうと考えている若者が多いようです。今回はそんな方々に向けたコラムを書いてみます。

 みなさんは、エイブラハム・フレクスナー(Abraham Flexner)の”The Usefulness of Useless Knowledge”というエッセイを読んだことがあるでしょうか? エイブラハム・フレクスナーといえば、世界最高峰の学術研究機関であるプリンストン高等研究所の初代所長であり、アルバート・アインシュタインや野口英世の上司でもあった人です。このエッセイは、そのフレクスナーが1939年に書いたものです。数十ページの短いものですが、これがアメリカでは「科学研究の神髄が語られている」とされています。実際、私がアメリカにいた頃に出会った研究者で、このエッセイを知らない/読んだことがないという人は一人もいませんでした。例外なく全員が、読んでいるのです。

 現在、このエッセイにプリンストン高等研究所前所長(第9代所長:2012年~2022年)のロベルト・ダイクラーフ(Robbert Dijkgraaf)氏のエッセイを加えたものが、1冊の書籍として出版されています。ダイクラーフのエッセイはフレクスナーの主張を補強するものです。ダイクラーフは、「現在において、フレクスナーのエッセイは、それが書かれた20世紀初頭以上に重要となっている」と言っています。Amazon.co.jpで売っていますので、まだ読んだことがないという方はぜひ手に入れて読んでみてください。90ページくらいの薄いハードカバーの本です。難しい英語は使われていませんから、すぐに読めるはずです。2020年には東京大学出版会からも訳書(エイブラハム・フレクスナー&ロベルト・ダイクラーフ著/初田哲男監訳、野中香方子・西村美佐子訳『「役に立たない」科学が役に立つ』が出ているようですので、「英語はちょっと……」という方はそちらを読まれてもいいでしょう。

 

役に立たない知識が役に立つ


 エッセイに書いてあるのは、表題のとおり「役に立たない知識が役に立つ」ということです。実用や応用を気にせずに純粋な好奇心で科学を追究すると、偉大な科学的発見や技術革新に繋がることが多いということが説かれています。要は、「基礎研究が大事であり、それがしばしば予期せず驚くべき有用性を人類にもたらす」ということです。

 科学研究とは、「この世界の真理を明らかにして人類が新しい知見を得る」という営みです。どんな知識から将来の人類にとって有用な技術が生まれるのか、いつ生まれるのかは、誰にもわかりません。それが容易に見極められるようなら、そんなものはとっくに先人が研究して結果を出しているはずです。これまで容易に結果が得られなかった領域だからこそ、そこに誰も知らないイノベーションが埋まっている可能性があるのです。だからこそ、基礎研究においては、さまざまな研究者が自身の興味や発想をもとに制約なく真理を探究することが大切です。

 フレクスナーが説いたように、人が純粋に知りたいことを追究していった結果、そこで得られた新しい知識が後の世で役に立つ“こともある”、というのが科学研究の自然な姿であると私も思います。私がアメリカで出会った学生や研究者たちも、そう考えていました。彼らは、「研究で行き詰まるたびにこのエッセイを読み返し、モチベーションを高めたりインスピレーションを得たりしているよ」と言っていました。アメリカの研究者にとってのこのエッセイは、まるでキリスト教の司祭が持つ聖書のようなものです。

 さて、その”The Usefulness of Useless Knowledge”を、日本の学生や研究者は読んでいるでしょうか? 国の科学技術政策に携わり研究予算をどのように配布するかを決めている政治家や官僚の方はどうでしょうか? 一昔前の方なら読んでいたかもしれません。しかし、これまでに機会があれば尋ねてきたところでは、どうも多くの若い方は読んだことがないようです。存在も知らないようでした。

 

「選択と集中」でよかったのか


 日本の科学技術力の低迷が言われ始めた頃、国は研究分野を選択して短期間に集中投資することで、これを巻き返そうとしました。そして、第三期科学技術基本計画で「選択と集中」を謳い、大型の研究費を東大や京大など特定の大学や研究に集中させるようになってから、もう20年くらいになります。20年といえば生まれたての赤子が立派な大人になるくらいの年月ですが、みなさんもよくご存じのように、この間に日本の科学研究の世界的なプレゼンスはどんどん失われています。

 フレクスナーの哲学に従えば、幅広い分野の基礎研究に長期的に資金を投入することこそが、科学技術力を向上させるはずです。こういったことは、研究の現場を知る人であれば自ずと感じ取るようなことです。それがわからないのは、日本の政治家にも官僚にも、研究の経験者すなわち博士号取得者が少ないからかもしれません。

 日本の「選択と集中」は、ある面では、実用分野に予算を多く振り分け、基礎研究を切り捨てる戦略です。研究大国アメリカの研究者がバイブルとしている”The Usefulness of Useless Knowledge”には、基礎研究こそがイノベーションの必須条件であるということが書かれているのですが……日本は「選択と集中」でよかったのか、改めて考えさせられますね。

 基礎研究の重要性を裏付ける研究結果が、少し前に筑波大学などの研究グループによって報告されていました。「ノーベル賞級の研究が生まれるプロセスを計量学的に解明した」という研究です。1991年以降に生命科学・医学分野に配布されたすべての科研費と研究成果の関係を調べたところ、研究への投資効率としては、少額の研究費を多くの研究者に配った方が、「選択と集中」よりも、萌芽的・ノーベル賞級のトピックの創出を促す効果が高いということが判明したといいます。

 

クラゲの研究がなければ今日のがん研究もなかった


 ひとつ例を挙げましょう。2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩さんの受賞理由は、オワンクラゲの発光の仕組みを解明し、1962年にGFP(Green Fluorescent Protein)という緑色に発光するタンパク質の単離と精製に成功したことでした。

 オワンクラゲは、日本の沿岸などでよく見られる直径10~20センチメートルほどのクラゲです。このクラゲは、刺激を受けると生殖線がほのかに緑色に発光します。下村さんは、「オワンクラゲがなぜ緑色に光るのか」ということが純粋に気になったのですね。研究に取り組み、やがてオワンクラゲが発光に利用しているタンパク質の一つ、緑色光を発するGFPを単離・精製することに成功しました。

 この技術が確立された後、研究者たちは研究室の中で観察対象の細胞やタンパク質を光らせる方法として、これを利用しはじめました。GFPは単体で発光し、その際に外部要因が不要だという特性がありました。GFPをコードする遺伝子を細胞に導入したりタンパク質に連結したりすることで、なんと生命現象を追跡するマーカーとなったのです。発現したGFPは紫外線や青色光を当てるだけで発光しますから、標的の細胞などが生きた状態で追跡・観察できるようになります。これはライフサイエンスにおける画期的なイノベーションでした。

 その後、GFPは、ライフサイエンスの分野の研究に欠かせない道具となりました。現在では、GFPを改良したさまざまな人工の蛍光タンパク質がつくられて・利用されています。例えば、がんの細胞にGFPをつくる遺伝子を組み込こめば、生体内でそのがん細胞が存在する場所や移動していく様子が紫外線をあてるだけで観察できます。私は世界認知症審議会の副議長を務めていましたが、認知症の原因の一つであるアルツハイマー病の治療薬の探索や発症メカニズムの解明の研究にもGFPは利用されています。

 下村さんのオワンクラゲの発光現象に対する純粋な好奇心がなければ、今日のがんやアルツハイマー病の研究も成り立っていないわけです。これは、無駄と思われていた科学が、人類の最も偉大な技術的進歩に繋がることが多いのかについての一例です。

 

研究の多様性を維持せよ


 天然資源に乏しく社会の高齢化に悩まされる日本が国際社会でプレゼンスを発揮するためには、科学技術に頼るしかありません。その科学技術を高めるためには、多数の独創的な基礎研究を中長期的に育てることが重要となります。国の予算は、そのために使われるべきです。

 2018年8月、大変に不名誉な報告がアメリカのScienceに載りました。研究不正による論文撤回数が多い研究者のトップ10の半数を日本人が占めたというのです。国から競争的資金を得た場合、研究した証拠を速やかに残さなくてはいけません。すると、研究倫理より論文掲載を優先する研究者が出てきます。「選択と集中」によって過剰に競争させられた研究者が、プレッシャーから不正に手を染めているのでしょう。このあたりのさまざまな事例は、友人の黒木登志夫さんが『研究不正 ――科学者の捏造、改竄、盗用』という本に詳しく書いているので、ぜひ読んでみてください。

 近年、例えば日本工学アカデミーは「わが国の工学と科学技術の凋落を食い止めるために」と題して、「基礎的研究の能力強化のために、安定性を持つ公的資金の充実を図るべきだ」という緊急提言を行いました。アカデミアでも多くの研究者が、「『選択と集中』を考え直すべきである」と訴えています。しかし、国が政策を転換する様子はありません。世界の国々では基礎研究はじめ科学技術研究に持続的に大きな資金が投入されているのですが、日本では研究投資が異様なまでに低迷したままです。
予算の問題に関して、究極的には「GDPが増えていないところに社会保障費が増大している」のが原因ということになりますが……。かぎられた特定の分野に「選択と集中」して、かぎられた予算をやりくりしているうちに、日本の研究における中長期的な多様性は失われてしまいかねません。

 今こそ、私たちはフレクスナーに学び、「役に立たないこと」の計り知れない価値に焦点を当てなくてはいけません。特に、政策立案に関わる方、研究に携わる方、研究を志す方でまだ読んでいないという人は、今すぐに読みましょう。国は以前から「優秀な科学研究人材を育てたい」と言っていますが、ならばこのエッセイを高校生の英語のテキストに採用すれば効果的だと思いますよ。

 

ノーベル賞繋がりで……


 線虫感染症の新しい治療法を発見した功績で、2015年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞された大村智さんのエッセイの新刊(『まわり道を生きる言葉』)を読みました。大村さんはノーベル賞の授賞式に私を招待してくれた友人ですが、いつの間にか日本エッセイスト・クラブの会長になっておられたのですね。化学者でエッセイストというのは日本では珍しいですね。自然科学分野のノーベル賞受賞者でということなら、世界でもほとんどいないのではないのでしょうか。化学者らしい観察眼と思索から綴られるエッセイから、大村さんの純粋な「科学する心」と「教育の哲学」を感じました。

左:Abraham Flexner (with a companion essay by Robbert Dijkgraaf)『The Usefulness of Useless Knowledge』Princeton Univ Pr 、右:大村智『まわり道を生きる言葉』草思社

主張<4> 国会事故調発足12年――変わらない日本社会

国会事故調同窓会が開催


 5月末に衆議院原子力問題調査特別委員会が開催されました。そして、今月の頭には、都内の某所で「変わらぬ日本と変わる私たち・これまでの12年間と次のステップ」と題した国会事故調の委員の同窓会が開かれました。残念ながら私は発熱でその日だけ欠席となりました。しかし、報告書作成などで汗を流したメンバーの多くが集まり、闊達な意見交換が行われたと聞いています。

 2年前、「福島第一原発事故発生から10年」ということで、さまざまなところに招かれて意見を述べました。それ以前から私は「日本は事故を教訓にして変わらなければならない」と説いて回っているのですが、10年の節目でも、それから2年がたった現在でも、日本社会は原発事故から学んでおらず、何も変わっていない、と私は感じています。

 

当時の菅直人総理からは返事がなかった


 国会事故調ができるまでのことを、今でもはっきりと覚えています。原発事故が発生した直後から、私は政府の対応に強い懸念を抱いていました。未曽有の大規模原発災害が起き、世界中で事故の調査と分析が進められているのに、当事者である日本政府と原子力産業界が、国民や世界に対してまったく情報を開示していなかったからです。私は、日本学術会議会長や内閣特別顧問など、科学者と政府の間に立つ役割を長く担ってきましたので、その立場から、当時総理大臣だった菅直人氏に「独立した国際的な調査委員会を一刻も早くつくるべきである」という意見書を届けました。しかし、返事はありませんでした。そこで、海外の識者たちと情報交換をしながら与野党の国会議員に直接会って働きかけを続けました。

 震災から半年がたった2011年の9月末、ようやく事故調査委員会の発足が決まりました。実に、事故発生から半年以上がたっていました。そして、12月8日、事故発生から9カ月がたってようやく「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)が国会に正式に発足し、私は委員長就任を要請されました。私があちこちに顔を出して、独立調査委員会を設置するように説いていたからでしょう。

 国会事故調の委員は、私を委員長として、マッキンゼー・アンド・カンパニー出身の社会システムデザイナー、都市防災を専門とする地震学者、チョルノービリ原発事故の国際支援に携わった経験のある元国連大使、放射線医学を専門とする医学博士、元名古屋大学高等検察庁検事局の弁護士、ノーベル賞を受賞した分析化学者、元原子炉エンジニアの科学ジャーナリスト、ガバナンスを専門とする法科大学院教授、被災自治体の商工会会長など、政府から独立した民間人で組織されました。このような委員会構成は、アメリカ大統領スリー・マイル・アイランド事故調査特別委員会(通称、ケメニー委員会)を参考にしたと聞いています。委員の独立性を確実に担保するため、メンバーは事前に徹底的な「身体検査」を受けました。

 

日本憲政史上初の独立調査委員会


 国会事故調は、法律で設置が決まる唯一の独立調査委員会でした。つまり、政府・役所から独立して、調査権限とスタッフの起用権限があり、国政調査権を発動でき、出頭や資料提出に強い権限を持っていました。このような委員会ができるのは日本の憲政史上初であり、私がそのことを欧米の識者たちに説明すると、「あり得ないね」と驚かれたものです。日本は先進的な民主主義国家とされていながら、これまで三権分立がまともに機能していなかったということです。

 私たち国会事故調は、約6カ月という極めて限られた期間で、調査の結論を出すように求められました。その6カ月間、メンバーは不眠不休に近かったと思います。国会事故調は、延べ1167人の関係者を対象とした約900時間におよぶインタビューと聞き取り調査、1万人を超える被災住民アンケート、3回のタウンミーティング、国内にある複数の原子力発電所の視察、チョルノービリ原発など計3回の海外での調査を実施しました。20回の委員会はすべて公開で行いました。そして、2012年7月5日、「福島第一原発事故は地震と津波による自然災害ではなく、明らかな『人災』である」と結論づけた、526ページからなる報告書を国会に提出しました。この報告書はウェブサイトに日本語と英語で掲載し、全世界から自由に閲覧できるようにしました。書籍にもしました。

 ちなみに、事故の当事者である政府や東京電力なども、それぞれが事故調査委員会を立ち上げていました。しかし、その事務局を務めたのは官僚や東京電力自身です。身内による調査ですから、報告書に組織に都合の悪いことは書かれません。そのような報告書では、失敗から学ぶことはできません。これらの事故調査委員会の報告書は、政府や東電の責任に明確に踏み込んでいませんでした。独立していないからです。

 

今も棚ざらしにされている報告書


 報告書の中で、国会事故調は、原子力に関する基本的な政策と行政組織の在り方について、「7つの提言」を行いました。この提言については、内閣府のウェブページや私の著書『規制の虜』(講談社)に詳しく出ていますので、ぜひ読んでみてください。 国会に正式に提出された報告書なのですから、国会はすみやかに討議を行い、実施計画を策定すべきです。しかし、報告書を受けて衆議院に原子力問題調査特別委員会が設置されたものの、実質的な議論は事故発生から13年がたっていまだほとんど行われていません。私たちが不眠不休でとりまとめた報告書は、現在までほとんど顧みられないまま、棚ざらしにされています。調査の過程で集まった段ボールに70箱余りの資料も、国会図書館内にただ眠っているだけです。この貴重な資料に、一般国民はアクセスもできません。

 

責任をとらない日本のエリート


 日本社会は原発事故を教訓として、学び、変わらなければいけなかったはずです。しかし、国会事故調報告書の扱いを見るかぎり、事故を引き起こした東京電力、政府、国会議員、経済産業省、原子力規制委員会といった産官学の当時のリーダーたちがそのことを自覚しているようには思えません。

 実際、国会事故調の調査のなかで、私は、原発事故の当事者であるこの国のいわゆる「エリート」とされるたちの無責任さに幾度となく遭遇しました。みんな、私たちの聴取に対して正面から答えず、追求されると意味の通らない答えに終始してひたすら逃げるばかりでした。彼らはいざ責任が生じる段になるとひとごとのように振る舞いました。そして、取り巻きの人々はそのような無責任な姿を見てなお、彼らに忖度し続けました。責任ある立場にある誰もかれもが、「この場を逃げ切れば、やがて事態は風化して、誰も責任をとらなくてよくなる」と考えているように、私には思えてなりませんでした。福島第一原発事故で私たち国会事故調のメンバーが見せつけられたのは、そんな日本社会の現状でした。

 これは、原発事故にかぎった話ではありません。日本社会にあるどのような組織でも同じような事が起きているのは、不祥事のニュース報道などでみなさんもよくご承知でしょう。不祥事を起こした後、責任者らしい人がテレビカメラに向かって頭を下げはしますが、実際の責任はうやむやであり、組織は変わらず、有効な再発防止策は講じられません。

 

日本社会を変えるためには個人が変わらなくてはいけない


 全体としての日本人は、世界的にみて優れている方なのでしょう。しかし、中枢にいるエリートに、大局観を持っているものがいません。誰が決め、誰が責任者なのかがはっきりしないため、多くの組織がグループシンク(集団浅慮)のわなに陥っています。これは、わが国にとって不幸なことです。失敗から学ばず、変われなければ、日本ではまた福島第一原発事故のような致命的な失敗が繰り返されることでしょう。

 福島第一原発の事故では、ずっと政治の見識や責任が問われているはずなのですが、その政治が機能しておらず、日本社会は変わっていません。個人で問題意識を持っている方は大勢いるでしょう。しかし、忖度や組織の同調圧力(グループシンク)の中で誰も「おかしい」と言わないから、何も動かず、変わりません。

 個人が勇気をもって発言し、それが民意として影響力を持つような社会でなければいけません。日本社会を変えるためには、まず私たち一人一人が、しっかりと声を出すような国民にならなくてはいけません。国民が変われば、その国民の代表である政治家、ひいては国が変わるはずなのです。

国会事故調同窓会の様子

主張<3> Nature Index 2024の「日本にポジティブな変化が見られた」は本当か?

5月某日、政策研究大学院大学にて。聖心女子大学教授のデイビット・マックニール博士と

デイビット・マックニール博士来訪


 各国の科学研究への貢献度についてまとめたオープンなリポートがNature Indexです。その2023年版であるNature Index 2023で“Will Japan’s new ¥10-trillion university fund lift research performance?”という記事を執筆されたデイビッド・マックニール博士が政策研究大学院大学の研究室にいらっしゃったので、日本の科学研究力についてディスカッションを行いました。

 Nature Index 2023では、中国の科学研究のアウトプットが長年にわたり科学研究で世界トップを走っていたアメリカを抜き、すでに世界1位となっていることが報告されました。中国は、国内総生産(GDP)に占める研究開発費の割合を前年比で上昇させており、2015年から2021年にかけて、質の高い研究成果において89%という飛躍的な成長を達成したとされています。

 一方の日本はといえば、研究開発費のGDPに占める研究開発費の割合は横ばい。高等教育への公的支出も2019年はGDPのわずか0.5%です(アメリカは0.9%で、ドイツやフランスはその2倍)。各指標からも日本の研究能力の低下は明らかでした。私がデイビッド・マックニール博士からインタビューを受け、そのコメントが“Will Japan’s new ¥10-trillion university fund lift research performance?(日本の10兆円大学ファンドは成果を上げるか?)” という特集に掲載されたのは、以前のコラムでみなさんにお知らせした通りです。

 

Nature Index 2024がリリース


 6月18日に、その最新版Nature Index Research Leaders 2024が公開されました。早速目を通してみますと、中国は相変わらず猛烈に成長しています。欧米がシェアを落とすなかで中国の研究のアウトプットは前年比で13.6%も伸び、研究機関の総合ランキングでも上位10のうちの7つを中国の機関が占めました。興味深いところでは、インドの科学力が急激な成長を見せていました(インドのGDPは2025年に日本を抜いて世界4位になるとされています)。さて、日本はといえば、論文数の国別ランキングで2016年以降変わらず5位をキープしていました。2023年の研究論文の数においては、他国と比べて減少率が比較的ゆるやかであり、Nature Indexは「ポジティブな変化が見られた」としています。

 

Nature Indexの指標は実態を反映しているか


 ただ、このリポートを読んで私たちは喜んではいけないでしょう。「論文数の減少率が比較的ゆるやかであった」といっても、すでに2017年から2022年にかけて約20%も減らしたうえ、2022年から2023年にかけてさらに1.7%も落ちているのです。また、Nature Indexでは採用されていませんが、「科学技術指標2023年」で見られるように、被引用数「トップ1%論文」や「トップ10%論文」においては、順位が下がり続けています。

筆者

 私は、Nature Indexの指標よりも被引用数による指標の方が、より実態を反映していると思うのですがね。この1年で、文部科学省の「10兆円規模の大学ファンド」が何か成果を上げたわけでもなく、日本のGDPも増えていません。何より、日本の研究機関において、上級研究員や指導教官の多くがその研究機関の出身であるという「縦割りシステム」が変わっていません。

 

「たこつぼ」になっている日本の大学


 例えば、日本では最高峰とされている東京大学の教員には、東大出身者が非常に多いのです。このことについて、私は「四行教授」という言葉をつくりました。履歴書に「東京大学卒業、東京大学助手(助教)、東京大学助教授(准教授)、東京大学教授」と四行だけ記されているような人のことです。近年は、ここに「海外に2年だけ行って帰ってくる」が追加されることもあるようですが、数年の滞在では独立して何かできるわけもなく、基本的には古巣の教授のひも付きです。

 「そんなの当たり前じゃない?私が教わった先生もそうだったよ」という方がいるかもしれませんが、それは世界の研究シーンでは異様な光景なのです。考えてもみてください。そんな「たこつぼ」のような環境で行われる研究に、斬新なアイデアや多様性が生まれるでしょうか? 海外の大学に比べて多様性に乏しく、均一性が高く、国際性が低く、男性ばかりで女性がいない。外国人もいない。そんな東大は、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが発表する世界大学ランキングで29位です。東大でこれですから、他の大学については言うまでもありません(沖縄科学技術大学院大学OISTのような例外もごく一部にあります。これは、次回以降に書きましょう)。

 

本当に「ポジティブな変化」が起きているのか?


 私がかねてより、「研究機関の中が縦割りになっていることこそが、日本の研究力低下の病巣である」としつこく主張していることは、みなさんもご存じでしょう。研究資金の獲得も大事でしょう。しかし、それ以上に大事なのは、大学の研究室の指導者が、大学院生をもっとアメリカ、イギリス、中国、オーストラリアなど海外に送り出すことだ……そう私は主張し続けているのですが、なかなか変わりませんね。はてさて。実際、この1年で日本の科学研究力に「ポジティブな変化があった」と言えるのでしょうか?

デイビット・マックニール博士

 研究室にいらっしゃったマックニール博士とは、このような話をしました。日本の科学研究はなぜダメになったのか? ソリューションは何なのか? 彼が2023年の記事の追跡調査をしてくださるそうなので、楽しみに待ちましょう。

主張<2> 次世代のサイエンティストをどのようにつくるか?

一夜にして症状を緩和する特効薬はない


 前回のコラムでも述べたように、日本の科学研究力は凋落の一途をたどっています。残念ながら何十年もかけて進行したこの病を、小手先の対応で治すことはできません。可能性があるとすれば、極めて当然ですが、優秀な若手の博士研究員(ポスドク)の育成でしょう。人を育てるのですから、それは一朝一夕にはできないことです。ただ、次世代のサイエンティストの育成に真剣に取り組まないかぎり、日本の科学研究に未来はありません。

 今となっては日本でもメジャーな「ポスドク」は、元々アメリカで生まれた制度でした。日本では、90年代に「大学院重点化計画」というものを立ち上げた際に、アメリカをまねしてポスドク制度が広く導入されました。日本に研究者を増やし、日本の基礎研究力を強化するのが目的でした。1996年度から2001年度までの5カ年計画として閣議決定された科学技術基本計画では、「ポスドク一万人創出」という目標が掲げられ、実際1996年には6224人しかいなかったポスドクは2002年には1万1127人に増えました。数字の上では、見事目標は達成されたのです。しかし、実際のところ、日本のポスドク制度とアメリカのポスドク制度は似て非なるものでした。雇用慣行や社会制度のちがいもあるでしょうが、本来、ポスドクは何のためにあるのかを理解しないままに制度が導入され、これが問題でした。

 

外に出ない日本のポスドク


 私も身をもって経験していますが、アメリカにおけるポスドクは研究者の「武者修行の場」です。大学院で博士号を取得した後、古巣とは別の研究室に任期付きで所属し、テニュアトラック、そしてテニュア(終身雇用)の地位を目指します。これが非常に狭き門で、生き馬の目を抜くような世界です。ポスドクに進んだ若手研究者は自らの研究室を主宰できるようになる日を目指し、死に物狂いで勉強し、働きます。このとき、「別の研究室に行く」というのがポイントです。欧米のアカデミアに、古巣にずっといるような研究者はいません。

 私が渡った半世紀ほど前から今まで変わらず、世界の研究の中心にあるのはアメリカです。そのアメリカに一時ビザで滞在して研究をする人たちの国籍別データがあります。年によって多少の変動はありますが、近年は中国からの滞在者が最も多くて毎年4000~5000人。インドが約2000人、韓国が1200人、台湾が700人。さて、日本はというと、これがなんと200人以下です。人口7000万人のタイにも及ばないのですから、いかに日本の研究者が、外に出ずに閉じこもっているかがわかるでしょう。

 むかしから、日本人の研究者は海外に出て行こうとしないのですね。出たとしてもたいていは2~3年。それで「十分に箔は付いた」とばかりに、帰国して元いた研究室で働き始める。そんな人がひところは大勢いました。教授の手足として働き続けて、そのうち助教なり准教授なりに取り立ててもらおうという考えです。

 文部科学省の学校教員統計調査によれば、日本の大学教員の自校出身者の割合は、全体平均で約32%、国立大学教員では42%超え。欧米の大学に比べて非常に高い数字です。同じ環境にずっといて、教授の下で教授のテーマに関連する研究をやったとして、そこに研究者としての創造性はあるでしょうか? 教授のひも付きで数年しか「武者修行」をしなかった研究者が古巣に持ち帰るアイデアやコネクションなど、どれほどのものでしょうか? そんな日本の研究室には魅力がないのでしょう、海外からの研究者もやって来ません。国際的な研究ネットワークは、日本の研究室を「孤島」と揶揄しています。

 

日本のポスドクのキャリアパスの不透明さ


 日本のポスドクが国際的に活躍できないのは、そのキャリアパスが極めて不透明であることも影響しているでしょう。科学技術政策研究所の「研究組織の人材の現状と流動性に関する調査」によれば、海外で研究したいという若手研究者の意欲を阻害する最大の要因が「海外へ移籍した後、日本に帰ってくるポストがあるか不安である」ということでした。

 日本でアメリカのポスドク制度を導入したとき、その出口については深く考えられませんでした。文部科学省の「ポスドク調査」によれば、日本でポスドクから正規職に移行できる研究者はわずか6.3%。内訳は大学教員が約5割、4割が研究機関の研究員であり、研究開発職以外の雇用は1割もありません。日本の若手研究者は大学にしかポジションがなく、その枠も極めて小さいということです。これが欧米では、民間企業の博士採用がそれなりにあり、博士号を持った人材が社会でしっかりと活躍しています。「博士号をとった後に路頭に迷う」ということが日本ほどは起こりません。

 

若手研究者は海外に出ましょう/出しましょう


 ただ、やはり、いま日本でポスドクをやっている人、これからやろうとしている人は、積極的に海外に出ていくべきです。非常に厳しい研究競争の世界ですが、そこで5~10年と組織を渡り歩いて居着けるようであれば、「高等教育を受け、高度な専門性を持つのに、食うにも困る人々」いわゆる「高学歴ワーキングプア」などにはならないでしょう。若いときのある時期に必死に勉強や研究に取り組んで「独立」した人であれば、欧米の大学や企業はその取り組みをフェアに評価してくれます。

 そして、日本の大学の教授は、大学院生や若手研究者に海外に出るチャンスを積極的に与えましょう。自分の研究テーマや知識を引き継ぐ「弟子」を育成することが、教授の仕事ではありません。次世代を切り開く独立した研究者を育てることこそが、高等教育に携わる者の責務です。人材を「育てる」ということとは、「知識を与える」ことではありません。若者は、機会が適切に与えられさえすれば自然と知識を会得し、自ら走りだします。

 独立した若手研究者は大学、企業、研究機関を、自らの自由意志で渡り歩きます。そのような人が増えれば、たこつぼに引きこもっている日本の研究現場の人材流動性も高まるでしょう。研究者は、渡り歩いたさまざまな組織が持っているノウハウ、新しいアイデア、多様なアプローチ方法、発想などを、滞在する先々にもたらします。海外では当たり前に行われているこのことが日本ではできていないから、日本の研究力は落ち続けているのです。

主張<1> 常に「なぜか?」を考えよ

日本の研究力が凋落している

 
 過日、私のところに財務官僚が3名きて「最近、日本の科学論文の引用数が落ちています」と言いました。その少し前に、文部科学省科学技術の学術制作研究所が「科学技術指標2023」という報告書を公表していました。

 そこには、日本は自然科学の分野において1年あたりの論文数(2019-2021年の平均・分数カウント法)では世界5位でありながら、質が高いとされる被引用数「トップ1%論文」の数では2022年版の10位から12位になったとあります。そして、「トップ10%論文」数でもイランに抜かれて過去最低の世界13位まで転落してしまっています。

 私が「ひどい凋落だよね。なぜだと思う?」と問いかけると、3名はしばらく考えて、「なぜでしょう。予算は出しているのですが……」と困惑しています。読者のみなさんにも、お聞きします。なぜ、二十年ほど前にはトップ10%論文で世界4位だった日本が、以降は凋落し、今や研究者人口が日本よりも少ない韓国やイランにも抜かれて世界13位になったのでしょうか? 考えてみてください。

 

経済も30年間停滞している

 
 日本経済も同じように凋落しています。2023年のドル建て名目GDP(国内総生産)で、日本(4兆2106億ドル)はドイツ(4兆4561億ドル)に抜かれて世界4位になりました。かつては、世界一の大国であるアメリカに迫る勢いで成長していた日本。1978年にはハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授が『Japan as Number One(ジャパン・アズ・ナンバーワン)』という本を出版するほど、日本経済は好調でした。

 そんな日本経済は、1990年代半ばにピークを迎えた後、30年間まったく成長していません。そんなのは世界の主要国で日本だけです。2010年には名目GDPで中国に抜かれて世界3位となり、いまドイツにも抜かれて世界4位です。近々、成長著しいインドにも抜かれるでしょう。みなさん、日本経済はなぜ停滞したのだと思いますか? これも、考えてみてください。

 

日本と欧米の高等教育の質のちがい

 
 私がみなさんに「なぜ?」と問いかけているのは、そこに、日本の弱点があるからです。先の財務官僚たちに、「ハーバード大学やケンブリッジ大学に、日本の大学のような入学試験があると思う?」と質問しました。留学経験もある方々ですから、「いや、ないでしょう」と答えます。

 そう、欧米の名門大学は、入学に際して日本のような一発勝負の筆記試験を行いません。代わりに、高校までの成績、推薦状、課外活動や本人の興味についてのエッセー、大学担当者とのコミュニケーションなどを通じ、入学希望者の人間性や将来性を多角的にみます。日本の大学のように、入試の時点で物事をどれだけ暗記しているかで評価していないのです。そして、大学に入れた後は猛烈に勉強させます。一方、日本の学生の多くは、古代中国の「科挙」のごとき暗記偏重の受験勉強で燃え尽きるのか、大学に入ると学問をやらなくなりますね。そんな筆記試験の突破に特化した日本の大学生の学力は、受験勉強の延長で知識(How To)止まりです。クイズ番組でもてはやされる東大生たちが、それを象徴しています。彼らは何でも知っていて、問いに対して入試の筆記試験のように素早く・正しく、解答することに長けている。そんな東大生をみて、多くの日本国民が「さすが東大生は賢いなぁ」と感心しています。しかし、そんな「クイズ王」としての東大生の価値も、ChatGPTなどのAIの登場で、もはや危ういでしょう。

 一方、欧米の名門大学の学生は、知識(How To)のストックは大前提で、その知識を用いて「なぜ?(Why)」を思考する訓練が勉強の中心です。日本と欧米で、高等教育の質まるでちがうのです。質の高い研究論文の主要な生産拠点の一つが大学ですから、高等教育の質がちがえばそこで生まれる研究者やその生産物の質に差が出るのは当然です。

 人間がAIと知識を競うことに意味はありません。知識を用いて自らの頭で「なぜ?」を考え、議論すること――それこそが、人間の真の賢さであり、その能力を施すのが高等教育の目的の一つです。ウインストン・チャーチルは、「大学の第一の責務は、商売のやり方を教えるのではなく、叡智を授けることだ。専門的な知識を仕込むのではなく、人格を育むことだ」と言っています。知識と叡智はちがうものです。歴史から叡智と哲学を学ぶのです。

 

多くの研究室が講座制

 
 大学院に進んだ学生は研究室に所属しますね。そこにも、日本の弱点があります。日本の大学の研究室の多くは、教授を頂点にタテ型のヒエラルキーを形成する講座制をとっています。これは明治以降からずっと変わらないシステムで、教授が師匠になる「家元制度」のようなものです。

 そんなタテ型の研究室では、若手研究者たちが教授を「師匠」とし、その師匠の持っているテーマについて研究し、論文を書きます。つまり、アイデアを出しているのは教授で、若手研究者はそれを補足する研究しかしていないということです。ここでも、なぜ?(Why)ではなく知識(How To)なのです。研究者が人まねをしていては、世界を驚かせる新発見はできません。

 これに対し、日本出身のノーベル賞受賞者は、例外なくアウトライヤーです。ノーベル賞受賞者の経歴を調べてみてください。日本の大学の既存の枠組みにとらわれず自らテーマを創造・開拓した人々をみれば、いい研究をするためには研究者として独立していることが大切だとわかります。

 

日本の研究現場が世界の「孤島」になっている

 
 私は、ポスドクで日本を出てアメリカにわたりました。アメリカにわたった直後、最初にボスとなったペンシルベニア大学のラスムッセン教授から、「あなたは博士だ。私も博士だから、あなたと私は同等。過去にこの研究室にきた日本人のポスドクたちは、私の方が偉いと思っていたり、私の手伝いをするのが仕事だと考えていたりするようだった。しかし、それはちがう。あなたはこれから、己が独立した研究者であることを証明しなくてはいけない」と言われました。

 この言葉はショックで、私のそれまでの日本的な価値観は大きく変わりました。そして、自分の頭で考えながら生き残るために必死に動き、最終的に日本には14年間帰らず、大学も4回変わりました。

 外の世界に出て感覚を研ぎ澄ませることで、初めて気づくことがたくさんあります。日本の外に長くいたことで「健全な愛国心」が育った私には、日本の弱点がよく見えます。日本のポスドクが海外に留学するといっても、通常は2、3年です。しかも、たいてい日本の研究室の教授のひも付き。これでは、独立した研究者にはなれません。

 そもそも、日本人研究者は海外に行かず、外国人も日本の研究室にはやってこず、データは日本の研究現場がグローバル化した世界の「孤島」であることを示しています。論文の生産拠点にいる多くの日本人研究者が、「日本の出身研究室にずっといて、いずれ教授の跡継ぎになろう」などと考えています。

 大学教員に自校出身者が占める割合、いわゆる「教員自給率」のデータを見ると、東大、京大は学部によって差はありますが 70%を超えています。これは世界的にみて異様な高さです。昭和まではそれでもよかったのかもしれませんが、IT技術が発達し、人・物・情報がフラットになった現代世界では、もう通用しません。

 

タテ社会の終焉

 
 論文の主要な生産拠点である日本の大学の教育システムは、経年劣化しており、グローバル化した世界に取り残されているのです。私はこの傾向とその行き着いた先について、「タテ社会の終焉」と呼んでいます。

 先年、英誌エコノミストの元東京特派員であるデイビッド・マックニール博士が、Nature index 2023 Japanの“Will Japan’s new \10-trillion university fund lift research performance?” と題した記事の中で、そんな私のコメントを取り上げてくれました。記事へのリンクをはっておきますので、みなさんぜひ読んでみてください。

 日本社会のいたる領域で、この「タテ社会の終焉」が起きています。そして、改めて「なぜか?」という問いに戻りましょう。なぜ、日本の研究力は落ちているのでしょうか? なぜ、日本経済は30年間も停滞したのでしょうか? なぜ、三井住友銀行で10年働いたバンカーは三菱UFJ銀行に転職できないのでしょうか? なぜ、同じ島国であるイギリスと日本で研究力や経済力がこんなにもちがうでしょうか?

 答えはあえて書きません。みなさん、「なぜか」を考えてみてください。日本が世界のトップグループに返り咲くために必要なことは、日本人が常に自らの頭で「なぜか」を考えることです。