主張<9> 「健康立国日本モデル」を世界に示せ

慢性疾患が世界を襲っている

 

 そう遠くない未来に私たち日本人を取り巻くであろう環境は、おおよそ予測がつきます。少子高齢化が進み、慢性疾患の患者が大量に発生します。慢性疾患を抱えた高齢の家族のケアを労働者が負うようになり、国の生産力はさらに落ちていくでしょう。実際、この30年間、日本のGDPは増えていませんから、そう遠くない時期に日本の社会保障は限界を迎えます。このままでは必然的に、現在の日本の医療制度は維持できなくなります。

 ただ、これは日本にかぎった話ではありません。一般的に、先進国では、国民の生活水準が高く栄養が行き渡ります。産業は第三次産業がメインになるため、人々は発達した交通機関のある都市に住んで、体を動かさなくなります。その結果として、糖尿病、高血圧、脂質異常症といった慢性疾患が増加します。ちなみに、中年に2つ以上の慢性疾患があると、後年の認知症のリスクが高まるという研究結果があります。高齢化社会の進行も相まって、認知症患者も増えていくということですね(認知症については前回の記事で書きましたので、ぜひお読みください)。

 人間の病気というと、これまでは貧しく不衛生な生活環境で発生するマラリア、結核、エイズのような感染症が主たる課題でした。しかし、現在、地球上で大勢の人々を襲い、命を奪い続けているのは、近代的で豊かな生活環境で発生している上記のような非感染性疾患であることが大きな特徴です。これは20世紀半ばまでの感染症を中心とした医学的思考では対応の難しい課題です。経済先進国でも前例がなかったことなので、まだ「理想的な社会モデル」は見つかっていません。

 歴史を振り返ると、人類の健康を脅かしてきた主な疾病は、マラリアや結核、エイズなど、貧困と不衛生な環境から生まれる感染症でした。ところが、現在、世界中で人々の命を脅かしているのは、皮肉にも経済発展と生活水準の向上がもたらした非感染性疾患です。これは、感染源の特定と衛生環境の改善という20世紀半ばまでの医学的思考では解決できない、人類の新しい課題といえます。この課題については、どの先進国もまだ有効的な解決策を見いだせていないのが現状です。

 しかし、どこも解決策を持っていないということは、逆に言えば、「理想的なモデル」を最初に構築できた国が、世界の範となれるということでもあります。そして、わが国はこの課題に最も早くそして最も深刻な形で直面しています。幸か不幸か。いずれにしても、チャンスと捉えるべきでしょう。

 

日本の医療政策に3つの提案

 

 認知症を含む慢性疾患が発生しやすい日本社会は、どのような医療政策をとるべきか。私から3つ、提案しておきます。第一には、国の医療費をできるだけ抑制するため、国民に健康的な生活習慣を根付かせることです。幸いなことに、糖尿病、高血圧、脂質異常症といった慢性疾患の多くは予防できます。認知症も、有効な治療法は見つかっていませんが、上記の慢性疾患を回避することで、ある程度の予防はできると考えられます。国民の一人ひとりが、まず己の健康状態を知り、自分で慢性疾患を予防するようになれば、医療行為は減らせて、国民医療費の高騰も抑えられます。その点では、若年層の喫煙率の低下、飲酒量の減少、トレーニングジムのブームなどはよい傾向ですね。

 第二には、国が国民一人ひとりの健康医療情報を電子データ化して統合し国と国民の共有財産とすることです。そうやって作成したビッグデータは、個人、医療従事者、科学者、医療政策をつくる者などにとって、きわめて有用です。今、国はマイナンバーカードを使ってこのような仕組みをつくろうとしていますね。一部のマスコミや政党が執拗にネガティブキャンペーンを張っていますが、リスクとベネフィットを客観的に判断すべきでしょう。もちろん、個人の健康情報というプライバシーが流出しないようにセキュリティー対策はしっかりととられねばなりませんし、データを収集する政府が国民に信頼されている必要があります。

 第三には、医療制度を改革して、新しい「かかりつけ医」の仕組みを導入することです。これは、以前に『大学病院革命』と『e-Health革命 ITで変わる日本の健康と医療の未来』(ともに日経BP社)という本で詳しく述べましたので、興味のある方はぜひ読んでみてください。簡単に説明すると、普段は自宅の近くにいる「かかりつけ医」と連携して健康管理を行い、重大な病気にかかったら、かかりつけ医が持つ診断データを専門治療のできる大型病院施設と共有し、そこで適切な治療を受けるような仕組みです。かかりつけ医と大型病院施設が患者の電子カルテを共有できれば、大規模病院は再編成され、日本の医療資源はより効率的に運用できるようになります。そのためには、現状、医師ごとに異なるカルテの書式を、教科書的に統一する必要もありますね。

 

過去には自動車や電気製品の製造で成功を収めたが……

 

 日本人は繊細で手先が器用な民族ですから、何かと「物の品質」で勝負したがります。「ものづくり」という言葉も好きですよね。しかし、「高品質の物をつくって広告を打てば大量に売れる」という旧時代のメソッドは、もはや世界には通用しません。すでに、高品質の物は日本以外の国でも生産できるようになっています。実際、電化製品や電子部品などは、中国、台湾、韓国にシェアを大きく奪われてしまいました。工業製品の製造は、かつての日本がアメリカに対してそうだったように、やがて後発国や後発企業に追いつかれる宿命にあります。自動車や電子部品の分野で日本が再逆転することは困難でしょう。

 日本がすでにあるものを、より薄く/より小さく、コツコツとただ改良していた間、間に世界最大の経済大国であるアメリカは、最先端技術研究に国を挙げて莫大な投資を行っていました。そして、その研究成果でソフトウエアという「形のないもの」を生み出し、人々の生活を一変させる「次世代ビジネス」で世界シェアを抑え、世界経済における支配的な地位をキープしています。AI関連事業、AR/VR、バイオテクノロジー産業、ヘルスケア産業、宇宙関連事業、クリーンエネルギー開発産業などなど、名だたる企業があるのがアメリカです。かつて世界経済の第一線にいた日本企業は、例えばApple社のiPhoneの部品などを製造する裏方として、かろうじて存在している状況です。過去に成功を収めた自動車や電気製品を地道に改良し続けることも大事でしょうが、日本はもっと「次世代ビジネス」に注目し、世界にイノベーションを起こるための研究に投資をしておくべきでした。

 

日本の次世代ビジネスは?

 

 これからの日本が世界シェアをとれる可能性がある「次世代ビジネス」は何でしょうか? 現在の世界のニーズは何だと思いますか? それが、私がこの記事の冒頭で述べた地球規模の保健医療の課題である高齢化とそれに伴って増加する人々の慢性疾患です。

 日本の医療と介護をとりまく現状は危機的と言ってよいのですが、実はチャンスでもあります。生活習慣病のまん延、少子高齢化、認知症、皆保険制度、医療人材不足などは、長寿を獲得した21世紀の人類には、必然的に起きる問題だからです。日本はいち早くこの課題に直面し、その対策の先陣を切る状況に置かれているのです。日本は「医療課題先進国」なのであり、それは世界に対する大きなアドバンテージと言えるでしょう。ただし、課題を抱えているだけでは意味がありません。重要なのは、スピード感を持って課題に取り組み、具体的な解決策を立案し、それを実際の医療現場に導入して、一つの「モデル」として確立することです。具体的にはまず、国民の健康医療情報のビッグデータ化を国家戦略とし、もっとスピード感を持って進めるべきです。

 そのためには、既存の医療システムに根づいた既得権益の壁を乗り越え、グローバルな視点から日本の立ち位置を見つめ直し、10年、20年先を見据えた長期的な視野に立つ必要があります。日本人は潔癖症のきらいがあって、新しいものが出てきたときにそのマイナス面を過剰に意識します。そのため、優れたアイデアがあっても、実行に踏み切れないことが少なくありません。確かに、新しい取り組みにはリスクが伴います。しかし、リスクばかりを過度に警戒していては、世界を変革するようなイノベーションは生まれません。これがアメリカでは、例えば、生成AIなどはすでにアメリカのテック企業が主導権を握りつつあります。彼らも生成AIのリスクを認識していますが、それ以上のベネフィットを重視し、10年先を見据えて前に進むことを選択しています。おそらくこのまま、アメリカがAIビジネスの覇権を握るでしょうね。自動運転技術の開発でも同様のことが起きています。

 新しいアイデアのリスクとベネフィットを冷静に比較し、リスクを最小限に抑える仕組みを整えながら研究開発を進め、スピード感を持って実用化する。イノベーションを実現するためには、日本人一人ひとりに意識改革が必要です(たいていの場合、物事に反対するのは国民ですから)。私は、医療従事者や政策決定者に、既存の利害関係にとらわれない、プロフェッショナルとしてのプライドと見識にもとづいた決断を期待しています。日本独自の医療費抑制モデルを構築できれば、それは「健康大国日本モデル」として世界各国がこぞって求めるでしょう。世界のニーズを捉えることができれば、このモデルは単なる制度設計にとどまらずそれ自体が日本の新たな知的財産となり、日本の「新しい商品」となるはずです。

 

「外から見る目」で世界のニーズを捉えよ

 

 ここまで高齢化と慢性疾患について述べてきましたが、病気に関する世界のニーズはまだあります。世界のどんな人々がどんな薬を欲しがっているのかは、相手の立場になってみないと感覚的にはわかりません。例えば、ポリオウイルスによって発生する脊髄性小児麻痺(ポリオ)という疾病は、現在の日本ではワクチン接種によって患者の発生はありません。しかし、アフガニスタン、マラウイ、モザンビーク、パキスタン、マダガスカル、コンゴ民主共和国などでは、いまだに感染が発生しており、世界保健機関(WHO)は、2014年5月5日から現在に至るまで、ポリオウイルスの国際的な広がりが「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC、Public Health Emergency of International Concern)」であることを宣言しています。日本人の多くが「遠海の向こうの病気」と認識しているマラリアにしても、2022年の推定感染者は約2億4900万人、死亡者は60万人もいます。たまたま現在の日本に入ってきていないだけで、これは「人類最悪の健康問題」です。ちなみに、マラリア原虫を媒介するのは熱帯のハマダラカですが、地球温暖化が進行していますから、そのうち日本にも入ってくるでしょう。マラリアにかぎらず、デング熱などのほかの熱帯病でも同様です。決してひとごとではありません。

 日本の製薬企業は優秀で、実はワクチンや治療薬の元になる「シーズ」をたくさん持っています。これは、アメリカやスイス、フランス、イギリスなどの大手製薬企業と比べても遜色ありません。ただ、生み出すシーズの多さの割には、経営的な決断力が乏しいという弱点があるように私には感じられます。経営上のリスクが少しでも見えたら、研究開発をストップして「お蔵入り」にしてしまうのです。「お蔵入り」になっているものの中には、別の使い方によっては有効性を発揮し、大きな利益を生むものもあるはずです。これは大変もったいないことです。

 病気は人の都合を考えません。新型コロナ禍でみなさんもご承知でしょうが、誰もがどこにでも行き来するグローバル社会では、何も対策をうてないでいると病原体はどこまでも広がります。そのようなことが起きる前に、製薬企業は、ワクチンや治療薬を前もって開発しておかねばなりません。世界中に膨大な種類の病気があるのですから、新薬開発にビジネスの可能性はいくらでもあります。日本国内だけを見ているのではなく、世界の枠組みで保健医療を考える、例えば、北里柴三郎のような人物が、現在の日本にもう少しいてくれるとよいのですが……。たしかに研究開発には相応のリスクがありますが、「失敗した責任を負いたくない」「海の向こうの病気など日本には関係ない」などといって手をこまねいているうちに、病気はまん延します。

 日本が持つ優れたシーズを世界に積極的に提供することを目的に、2012年11月、一般社団法人グローバルヘルス技術振興基金(GHIT Fund)というものが設立されました。これは、日本と海外の製薬企業、研究機関、大学の共同研究開発に投資することで、日本の有する医薬品シーズなどを開発途上国向けの感染治療薬、ワクチン、診断薬の製品開発に活かすことを目的とする国際的な非営利組織です。私はそこで2013年から2018年まで第一期の会長兼代表理事を務め、国内の大手製薬企業や政府、研究機関など連携して、開発途上国でまん延するマラリア、結核、顧みられない熱帯病(フィラリア症、狂犬病、ハンセン病など、熱帯地域の貧困層を中心にまん延している感染症疾患)などの感染症を制圧するためのスクリーニングプログラムを実施してきました。

 GHIT Fundは理事会メンバーの約半数が外国人です。会議も申請書もすべて英語で、審査は日本人と外国人とが半分ずつ行っています。こうすることによって、内向きの傾向がある日本人でも常に自らを世界の中に置いて物事を考えるようになり、意識が外向きに変わってくるのです。元ビル&メリンダ・ゲイツ財団もGHITに参加しています(GHIT Fund設立の構想に財団がかかわっています)。彼らの存在は宣伝効果が大きく、また、連携してくれた大学、研究所、企業のスタッフに「私たち日本人も世界につながっている」という意識が芽生えたようでした。現在、GHITには日本のメジャーな製薬企業6社が1年1億円でコミットしています。これらの企業がふだん使っている国際宣伝広告費に比べれば、この1億円は安いものでしょう。日本が持つ優れた医薬品シーズを引き出し、それを世界に約20あるProduct Development Partnersという医療研究開発を専門に行っている国際NGOに託す。その結果、ヒットするものがあれば、後は自社開発して導出してもらう。企業が個別に動くよりもプロセスはずっと早いですし、社外からの予算がつけば弾みにもなります。

 GHIT Fund自体は投資による金銭的なリターンを求めていませんが、製品開発の進捗や成果を投資のリターンとしています。現在、GHITからの投資を受けて、日本の科学や創薬技術を活用した新薬開発案件がすでに40件以上進んでおり、実際に、新薬も開発されています。例えば、世界74カ国で流行し、感染リスクがあるのは6億人、感染者は2億人、うち1億2千万人で病状が進行し、年間に毎年2万人が死亡する住血吸虫症という寄生虫病があります。GHITが2013年から9年間にわたって開発支援してきたその小児用の治療薬「アラプラジカンテル」は、2021年11月にⅢ相試験が完了し、有効性・安全性ともに良好な結果が得られています。今後、アフリカを中心とする5000万人以上の就学前児童に対する新たな治療オプションとなるでしょう。このような成果や実績が評価され、GHITにはステークホルダーたちからさらなる支援が集まっています。

 日本本発の優れた医薬品を実用化し、先進国に対してはある程度の値段で販売する。新興国に対しては国際機関に買い上げてもらって無料配布する。そうすれば、最近は売る物がなくなってきた日本が再び世界で稼げるようになるでしょう。また、新興国での日本の評判も大きく上がるでしょう。新興国の子どもたちが大きくなった時に、「小さいころ、日本の薬に命を救ってもらった」と感謝してくれるようになれば、それが日本という国の強力な「ブランド」となり、日本は再び世界で存在感を発揮するようになるはずです。