主張<4> 国会事故調発足12年――変わらない日本社会

国会事故調同窓会が開催


 5月末に衆議院原子力問題調査特別委員会が開催されました。そして、今月の頭には、都内の某所で「変わらぬ日本と変わる私たち・これまでの12年間と次のステップ」と題した国会事故調の委員の同窓会が開かれました。残念ながら私は発熱でその日だけ欠席となりました。しかし、報告書作成などで汗を流したメンバーの多くが集まり、闊達な意見交換が行われたと聞いています。

 2年前、「福島第一原発事故発生から10年」ということで、さまざまなところに招かれて意見を述べました。それ以前から私は「日本は事故を教訓にして変わらなければならない」と説いて回っているのですが、10年の節目でも、それから2年がたった現在でも、日本社会は原発事故から学んでおらず、何も変わっていない、と私は感じています。

 

当時の菅直人総理からは返事がなかった


 国会事故調ができるまでのことを、今でもはっきりと覚えています。原発事故が発生した直後から、私は政府の対応に強い懸念を抱いていました。未曽有の大規模原発災害が起き、世界中で事故の調査と分析が進められているのに、当事者である日本政府と原子力産業界が、国民や世界に対してまったく情報を開示していなかったからです。私は、日本学術会議会長や内閣特別顧問など、科学者と政府の間に立つ役割を長く担ってきましたので、その立場から、当時総理大臣だった菅直人氏に「独立した国際的な調査委員会を一刻も早くつくるべきである」という意見書を届けました。しかし、返事はありませんでした。そこで、海外の識者たちと情報交換をしながら与野党の国会議員に直接会って働きかけを続けました。

 震災から半年がたった2011年の9月末、ようやく事故調査委員会の発足が決まりました。実に、事故発生から半年以上がたっていました。そして、12月8日、事故発生から9カ月がたってようやく「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)が国会に正式に発足し、私は委員長就任を要請されました。私があちこちに顔を出して、独立調査委員会を設置するように説いていたからでしょう。

 国会事故調の委員は、私を委員長として、マッキンゼー・アンド・カンパニー出身の社会システムデザイナー、都市防災を専門とする地震学者、チョルノービリ原発事故の国際支援に携わった経験のある元国連大使、放射線医学を専門とする医学博士、元名古屋大学高等検察庁検事局の弁護士、ノーベル賞を受賞した分析化学者、元原子炉エンジニアの科学ジャーナリスト、ガバナンスを専門とする法科大学院教授、被災自治体の商工会会長など、政府から独立した民間人で組織されました。このような委員会構成は、アメリカ大統領スリー・マイル・アイランド事故調査特別委員会(通称、ケメニー委員会)を参考にしたと聞いています。委員の独立性を確実に担保するため、メンバーは事前に徹底的な「身体検査」を受けました。

 

日本憲政史上初の独立調査委員会


 国会事故調は、法律で設置が決まる唯一の独立調査委員会でした。つまり、政府・役所から独立して、調査権限とスタッフの起用権限があり、国政調査権を発動でき、出頭や資料提出に強い権限を持っていました。このような委員会ができるのは日本の憲政史上初であり、私がそのことを欧米の識者たちに説明すると、「あり得ないね」と驚かれたものです。日本は先進的な民主主義国家とされていながら、これまで三権分立がまともに機能していなかったということです。

 私たち国会事故調は、約6カ月という極めて限られた期間で、調査の結論を出すように求められました。その6カ月間、メンバーは不眠不休に近かったと思います。国会事故調は、延べ1167人の関係者を対象とした約900時間におよぶインタビューと聞き取り調査、1万人を超える被災住民アンケート、3回のタウンミーティング、国内にある複数の原子力発電所の視察、チョルノービリ原発など計3回の海外での調査を実施しました。20回の委員会はすべて公開で行いました。そして、2012年7月5日、「福島第一原発事故は地震と津波による自然災害ではなく、明らかな『人災』である」と結論づけた、526ページからなる報告書を国会に提出しました。この報告書はウェブサイトに日本語と英語で掲載し、全世界から自由に閲覧できるようにしました。書籍にもしました。

 ちなみに、事故の当事者である政府や東京電力なども、それぞれが事故調査委員会を立ち上げていました。しかし、その事務局を務めたのは官僚や東京電力自身です。身内による調査ですから、報告書に組織に都合の悪いことは書かれません。そのような報告書では、失敗から学ぶことはできません。これらの事故調査委員会の報告書は、政府や東電の責任に明確に踏み込んでいませんでした。独立していないからです。

 

今も棚ざらしにされている報告書


 報告書の中で、国会事故調は、原子力に関する基本的な政策と行政組織の在り方について、「7つの提言」を行いました。この提言については、内閣府のウェブページや私の著書『規制の虜』(講談社)に詳しく出ていますので、ぜひ読んでみてください。 国会に正式に提出された報告書なのですから、国会はすみやかに討議を行い、実施計画を策定すべきです。しかし、報告書を受けて衆議院に原子力問題調査特別委員会が設置されたものの、実質的な議論は事故発生から13年がたっていまだほとんど行われていません。私たちが不眠不休でとりまとめた報告書は、現在までほとんど顧みられないまま、棚ざらしにされています。調査の過程で集まった段ボールに70箱余りの資料も、国会図書館内にただ眠っているだけです。この貴重な資料に、一般国民はアクセスもできません。

 

責任をとらない日本のエリート


 日本社会は原発事故を教訓として、学び、変わらなければいけなかったはずです。しかし、国会事故調報告書の扱いを見るかぎり、事故を引き起こした東京電力、政府、国会議員、経済産業省、原子力規制委員会といった産官学の当時のリーダーたちがそのことを自覚しているようには思えません。

 実際、国会事故調の調査のなかで、私は、原発事故の当事者であるこの国のいわゆる「エリート」とされるたちの無責任さに幾度となく遭遇しました。みんな、私たちの聴取に対して正面から答えず、追求されると意味の通らない答えに終始してひたすら逃げるばかりでした。彼らはいざ責任が生じる段になるとひとごとのように振る舞いました。そして、取り巻きの人々はそのような無責任な姿を見てなお、彼らに忖度し続けました。責任ある立場にある誰もかれもが、「この場を逃げ切れば、やがて事態は風化して、誰も責任をとらなくてよくなる」と考えているように、私には思えてなりませんでした。福島第一原発事故で私たち国会事故調のメンバーが見せつけられたのは、そんな日本社会の現状でした。

 これは、原発事故にかぎった話ではありません。日本社会にあるどのような組織でも同じような事が起きているのは、不祥事のニュース報道などでみなさんもよくご承知でしょう。不祥事を起こした後、責任者らしい人がテレビカメラに向かって頭を下げはしますが、実際の責任はうやむやであり、組織は変わらず、有効な再発防止策は講じられません。

 

日本社会を変えるためには個人が変わらなくてはいけない


 全体としての日本人は、世界的にみて優れている方なのでしょう。しかし、中枢にいるエリートに、大局観を持っているものがいません。誰が決め、誰が責任者なのかがはっきりしないため、多くの組織がグループシンク(集団浅慮)のわなに陥っています。これは、わが国にとって不幸なことです。失敗から学ばず、変われなければ、日本ではまた福島第一原発事故のような致命的な失敗が繰り返されることでしょう。

 福島第一原発の事故では、ずっと政治の見識や責任が問われているはずなのですが、その政治が機能しておらず、日本社会は変わっていません。個人で問題意識を持っている方は大勢いるでしょう。しかし、忖度や組織の同調圧力(グループシンク)の中で誰も「おかしい」と言わないから、何も動かず、変わりません。

 個人が勇気をもって発言し、それが民意として影響力を持つような社会でなければいけません。日本社会を変えるためには、まず私たち一人一人が、しっかりと声を出すような国民にならなくてはいけません。国民が変われば、その国民の代表である政治家、ひいては国が変わるはずなのです。

国会事故調同窓会の様子