主張<6> 書を読み、外へ出よう

日本人の6割は月に本を1冊も読まない

 

 先日、文化庁が結果を発表した令和5年度実施「国語に関する世論調査」に、大変ショッキングなことが書かれていました。なんと、日本人の60%以上が月に1冊も本を読まない、いうのです。以下のリンク先にPDFがあります。その中の「Ⅲ 読書と文字・活字による情報に関する意識」の項目をみなさんもぜひご自身の目で確認してみてください。

文化庁:令和5年度「国語に関する世論調査」の結果について
 

 ここに示されているのは、全国16歳以上の個人6000人を対象とした調査(有効回収数3559人)で、漫画・雑誌を除く書籍(電子書籍含む)を1カ月に「1冊も読まない」と回答した人が62.6%、「1、2冊」が27.6%、「3、4冊」が6.0%、「5、6冊」が1.5%、「7冊以上」が1.8%ということです。5年前の調査では、「1冊も読まない」と回答した人が47.3%だったそうですから、たった5年で1か月間に本を1冊も読まない人が15.3ポイントも増加しています。

 「0冊」と回答した人に男女の差はほとんどなく、年代別の分析ではいずれに年代でも男女問わず「0冊」が最多であったそうです。つまり、年代や地域によらず大半の日本人が本を読まなくなったということですね。以前から、知り合いの編集者に「コミック以外の本がどんどん売れなくなっている(=日本人が本を読まなくなっている)」と聞いていましたが、ここまでとは思いませんでした。

 

日本の大学生も本を読まない

 

 今回の文化庁の発表した調査結果では「1か月に読む本の冊数」について年齢や職業別のデータが示されていないのですが、「本を1冊も読まない人が62.6%」ということですから、気になるのは高等教育段階にある大学生のことです。大学生こそ本をたくさん読まなければいけないはずです。そこで、日本の大学生の読書量について何かデータはないか調べてもらったところ、全国大学生活協同組合連合会が学生生活実態調査で全国の大学生の読書時間に関するデータをとっていました。

 その調査によれば、2015年から2023年まで1日の読書時間「0分」の学生は45~50%で推移しているということです。文化庁の調査と質問文は異なりますが、この調査で示された「日本の大学生の40~50%が1日の読書時間ゼロ」という事実も驚くべき話です。大学生協連によれば、「読書時間ゼロ」について1977年は13.2%だったものが、長期トレンドでここまで増加してきたということです。私が東大で教えていた頃の大学生なら誰しもに「座右の書」というものがあったはずですが、先の調査結果を鑑みるに現在はそのような書を持っている学生の方がマイナーなのでしょうね。

全国大学生活協同組合連合会:第59回学生生活実態調査

 

「活字離れは起きていない」とはいうが

 

 読書離れのトレンドが起きている原因について、文化庁は「スマートフォンやタブレットの利用が読書の時間に取って代わっているのではないか」と推測しています。これをもって、「日本人に読書離れが起きていても活字離れは起きていない。だから大げさに騒ぐことはない」とする意見もあるようですが、これは間違いでしょう。危機感を持ってもっと騒がないといけません。

 活字を読むにしても、「何を読んでいるか」が重要です。学生たちが手に持っているスマートフォンやタブレットに表示されているネットニュース、ウェブサイトの記事、SNSの投稿などは、短いセンテンス/短いパラグラフで構成された文章です。本に置き換えると、1ページにも満たないか長くてせいぜい数ページにしかなりません。また、多くの文章は万人に読まれるように「わかりやすく」「単純化して」「刺激的に」書かれています。そのようななジャンクな文章を次々読んだからといって、高等教育段階の学生が身につけるべき教養の足しに果たしてなるでしょうか? わかりやすく書かれた短い文章だけを読んでいたら、難解なテキストをわからないなりに時間をかけて読み切る持久力も身につきません。深く思索することもできないでしょうね。

 

アメリカの大学生が読んでいる本

 

 一方で、アメリカの大学生はむかしから圧倒的に読書をしています。私もアメリカの大学で学生を教えていた時期がありますが、誇張でも何でもなく日本の大学生のゆうに10倍は本を読んでいる印象です。そして、特に彼らは1~2年生のときにリベラル・アーツの課題図書として数百冊にもなる膨大な数の「古典」を読んでいるのですね。

 例えば、アメリカ TOP10大学の課題図書ランキングは以下のようなものです。このあたりは、どの大学のどのコースでも鉄板でしょう。

 

【アメリカトップ10大学の課題図書ランキング】

  1. Republic(国家):Plato(プラトン)
  2. Leviathan(リヴァイアサン):Hobbes, Thomas(トマス・ホッブズ)
  3. The Prince(君主論):Machiavelli, Niccolò(ニッコロ・マキアヴェッリ)
  4. The Clash of Civilizations(文明の衝突):Huntington, Samuel(サミュエル・ハンチントン)
  5. The Elements of Style(英語文章ルールブック):Strunk, William(ウィリアム・ストランク)
  6. Ethics(倫理学):Aristotle(アリストテレス)
  7. The Structure of Scientific Revolutions(科学革命の構造):Kuhn, Thomas(トマス・クーン)
  8. Democracy in America(アメリカの民主政治):Tocqueville, Alexis De(アレクシ・ド・トクヴィル)
  9. The Communist Manifesto(共産党宣言):Marx, Karl(カール・マルクス)
  10. The Politics(政治学):Aristotle(アリストテレス)

 

 オープン・シラバスという世界中の大学のカリキュラムを集めたデータベースがあります。英語圏の大学生たちが課題図書としてどんな古典を読んでいるかをもっと詳しく知りたい方は、ぜひのぞいてみてください。

OPEN SYLLABUS
 

 検索すればこのOPEN SYLLABUSを元に書かれたさまざまな記事もヒットします。

Required College Reading List in 2024: Books Students at the Top US Colleges Read

These are the books students at the top US colleges are required to read
 

 これらの課題図書は毎回の講義の前に、自分で読んで内容を身につけておくことが最低限です。実際の講義では、その内容について学生同士がディスカッションを行うのが一般的です。日本の大学のように、ワンシーズンの講義中にたった1冊の本を先生と一緒にチマチマと読み進めることなどしません。流し読みや要約を付け焼き刃的にインプットしたのでは議論はできませんから、アメリカの学生は寝る時間も惜しんで猛烈に課題図書を読み、勉強し、リポートを書きます。日本からアメリカに留学した学生の多くは、アメリカの大学と日本の大学とが勉強の量も密度も次元がちがうことに驚くようですね。

 先に挙げたような古典はどれも、時代によらない普遍の価値を持ちます。読んだ者に、深い知識と教養、広い視野、時代の流れを理解する力、そして危機を乗り越えるための決断力を与える名著です。高等教育段階にある学生が必ず読むべきものでしょう。さて、日本の大学生のみなさんはどうでしょうか? 45~50%は読書時間ゼロだそうですが、ここに挙げられた1冊でもきちんと読んでいるでしょうか? 東京大学の学生はどうでしょう?

 

日本の大学生が読むべき黒川選書

 

 アメリカでは、1909年からハーバード大学の学長だったチャールズ・エリオットが『ハーバード・クラシックス』という50の名著からなるアンソロジーを刊行しています。また、1930年代からは哲学者であり教育者でもあるモーティマー・J・アドラーが古典を読み議論をする「グレート・ブックス運動」を推進しています。これらで選ばれている古典は西洋のものばかりですので、私たち日本人向けのものと、また、将来にわたって読んだ人に力を与えるであろう「現代の古典(古い本ばかりが古典ではない!)」を挙げます。これを「黒川選書」として、日本の学生は大学に入ったら、講義で取り扱うかどうかにかぎらず、まずは以下の本を読んでみることを提案します。

 

【黒川選書】

  • ・Ruth Benedict『菊と刀』1948
  • ・丸山真男『日本の思想』1961
  • ・中根千恵『タテ社会の人間関係』1967, 『タテ社会の力学』1978
  • ・Karel van Wolferen『日本権力構造の謎』1990、ほかの著書
  • ・Samuel Huntington 『文明の衝突』1996
  • ・Ivan Hall『知の鎖国』1997
  • ・池上映子『名誉と順応:サムライ精神の歴史社会学』2001, 『美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源』2005
  • ・John W. Dower『敗北を抱きしめて 増補版(上・下)』2004
  • ・Richard Samuels『3.11 震災は日本を変えたのか』2016
  • ・David Pilling『日本‐喪失と再起の物語:黒船、敗戦、そして3・11(上・下)』2014
  • ・三谷太一郎『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』2017
  • ・東谷暁『山本七平の思想 日本教と天皇制の70年』2017
  • ・R. Taggart Murphy『日本‐呪縛の構図:この国の過去、現在、そして未来(上・下)』2017
  • ・Gillian Tett『サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠』2019
  • ・Moises Naim『権力の終焉 (The End of Power)』2013
  • ・黒川清『規制の虜:グループシンクが日本を滅ぼす』2016

 

 この黒川選書に先の10冊を加えた約30冊は、大学1~2年生のうちに読んでしまうことです。いずれも大学や地域の図書館の蔵書になっていますから、「本代がないから読めない」ということにはならないはずです。英語で書かれたものは原著で読んでおくのがベストですが、ハードルが高ければまずは翻訳版でもいいでしょう。

 また、約30冊だけでは年に100冊以上を課題図書として読むアメリカの大学生の読書量には遠く及びません。30冊はあくまで初めの一歩として、以降は自身で読むべき本を探し、読書経験を深めていってください。最初の30冊をしっかりと読み切れたなら、みなさんにはもう読書習慣が身についているはずです。

 

書を読み、外へ出よう

 

 高等教育段階の学生の「教養としての読書」について書いてきました。古典を読むことで、教養が身につくだけでなく、世界のなかの日本が感じられ、みなさんの視野は広がるはずです。そして、この読書と平行して、かねてより学生のみなさんに私が勧めているのが、「自主的に海外に行く」ということです。これは以前に東京大学の入学式の式辞でも学生たちに呼びかけたのですが、在学中に思い切って「休学」をし、海外に出て、留学、企業・政府・NGOのインターンシップ、ボランティア、ギャップターム、ギャップイヤーなどなどを経験してみてください。目的は何でもいいので、とにかく海外に出て自力で生活してみることです。

 なぜ海外に出ることを勧めるかというと、外から日本を見ると日本という国の強さ/弱さを感じ取れるようになるのです。同時に、自分自身の強さ/弱さも感じられるようになります。すると、グローバル社会における日本の課題と自分自身の可能性に気づくことができるのですね。キャリアのロールモデルも、均一性の高い日本人1億2000万人の中から探すより、全世界の79億人の中から探す方が、見つかる可能性はずっと高いはずです。明治維新の頃、海外で学び、日本に戻った後に偉業をなした人々(例えば、福沢諭吉、岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、津田梅子、エトセトラ……)のように、自分のやりたいことや成すべきこと、キャリアの道などがわかるようになるのです。

 つまり「書を読み、外へ出よう」ということです。本で得た知識と実体験で得た知恵が合わさって、はじめて人は世界に通じる真の教養人となります。

主張<5> Abraham Flexnerの”The Usefulness of Useless Knowledge”を読んだことがありますか?

科学研究の「神髄」


 このブログの読者には、科学研究に携わる方やこれから携わっていこうと考えている若者が多いようです。今回はそんな方々に向けたコラムを書いてみます。

 みなさんは、エイブラハム・フレクスナー(Abraham Flexner)の”The Usefulness of Useless Knowledge”というエッセイを読んだことがあるでしょうか? エイブラハム・フレクスナーといえば、世界最高峰の学術研究機関であるプリンストン高等研究所の初代所長であり、アルバート・アインシュタインや野口英世の上司でもあった人です。このエッセイは、そのフレクスナーが1939年に書いたものです。数十ページの短いものですが、これがアメリカでは「科学研究の神髄が語られている」とされています。実際、私がアメリカにいた頃に出会った研究者で、このエッセイを知らない/読んだことがないという人は一人もいませんでした。例外なく全員が、読んでいるのです。

 現在、このエッセイにプリンストン高等研究所前所長(第9代所長:2012年~2022年)のロベルト・ダイクラーフ(Robbert Dijkgraaf)氏のエッセイを加えたものが、1冊の書籍として出版されています。ダイクラーフのエッセイはフレクスナーの主張を補強するものです。ダイクラーフは、「現在において、フレクスナーのエッセイは、それが書かれた20世紀初頭以上に重要となっている」と言っています。Amazon.co.jpで売っていますので、まだ読んだことがないという方はぜひ手に入れて読んでみてください。90ページくらいの薄いハードカバーの本です。難しい英語は使われていませんから、すぐに読めるはずです。2020年には東京大学出版会からも訳書(エイブラハム・フレクスナー&ロベルト・ダイクラーフ著/初田哲男監訳、野中香方子・西村美佐子訳『「役に立たない」科学が役に立つ』が出ているようですので、「英語はちょっと……」という方はそちらを読まれてもいいでしょう。

 

役に立たない知識が役に立つ


 エッセイに書いてあるのは、表題のとおり「役に立たない知識が役に立つ」ということです。実用や応用を気にせずに純粋な好奇心で科学を追究すると、偉大な科学的発見や技術革新に繋がることが多いということが説かれています。要は、「基礎研究が大事であり、それがしばしば予期せず驚くべき有用性を人類にもたらす」ということです。

 科学研究とは、「この世界の真理を明らかにして人類が新しい知見を得る」という営みです。どんな知識から将来の人類にとって有用な技術が生まれるのか、いつ生まれるのかは、誰にもわかりません。それが容易に見極められるようなら、そんなものはとっくに先人が研究して結果を出しているはずです。これまで容易に結果が得られなかった領域だからこそ、そこに誰も知らないイノベーションが埋まっている可能性があるのです。だからこそ、基礎研究においては、さまざまな研究者が自身の興味や発想をもとに制約なく真理を探究することが大切です。

 フレクスナーが説いたように、人が純粋に知りたいことを追究していった結果、そこで得られた新しい知識が後の世で役に立つ“こともある”、というのが科学研究の自然な姿であると私も思います。私がアメリカで出会った学生や研究者たちも、そう考えていました。彼らは、「研究で行き詰まるたびにこのエッセイを読み返し、モチベーションを高めたりインスピレーションを得たりしているよ」と言っていました。アメリカの研究者にとってのこのエッセイは、まるでキリスト教の司祭が持つ聖書のようなものです。

 さて、その”The Usefulness of Useless Knowledge”を、日本の学生や研究者は読んでいるでしょうか? 国の科学技術政策に携わり研究予算をどのように配布するかを決めている政治家や官僚の方はどうでしょうか? 一昔前の方なら読んでいたかもしれません。しかし、これまでに機会があれば尋ねてきたところでは、どうも多くの若い方は読んだことがないようです。存在も知らないようでした。

 

「選択と集中」でよかったのか


 日本の科学技術力の低迷が言われ始めた頃、国は研究分野を選択して短期間に集中投資することで、これを巻き返そうとしました。そして、第三期科学技術基本計画で「選択と集中」を謳い、大型の研究費を東大や京大など特定の大学や研究に集中させるようになってから、もう20年くらいになります。20年といえば生まれたての赤子が立派な大人になるくらいの年月ですが、みなさんもよくご存じのように、この間に日本の科学研究の世界的なプレゼンスはどんどん失われています。

 フレクスナーの哲学に従えば、幅広い分野の基礎研究に長期的に資金を投入することこそが、科学技術力を向上させるはずです。こういったことは、研究の現場を知る人であれば自ずと感じ取るようなことです。それがわからないのは、日本の政治家にも官僚にも、研究の経験者すなわち博士号取得者が少ないからかもしれません。

 日本の「選択と集中」は、ある面では、実用分野に予算を多く振り分け、基礎研究を切り捨てる戦略です。研究大国アメリカの研究者がバイブルとしている”The Usefulness of Useless Knowledge”には、基礎研究こそがイノベーションの必須条件であるということが書かれているのですが……日本は「選択と集中」でよかったのか、改めて考えさせられますね。

 基礎研究の重要性を裏付ける研究結果が、少し前に筑波大学などの研究グループによって報告されていました。「ノーベル賞級の研究が生まれるプロセスを計量学的に解明した」という研究です。1991年以降に生命科学・医学分野に配布されたすべての科研費と研究成果の関係を調べたところ、研究への投資効率としては、少額の研究費を多くの研究者に配った方が、「選択と集中」よりも、萌芽的・ノーベル賞級のトピックの創出を促す効果が高いということが判明したといいます。

 

クラゲの研究がなければ今日のがん研究もなかった


 ひとつ例を挙げましょう。2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩さんの受賞理由は、オワンクラゲの発光の仕組みを解明し、1962年にGFP(Green Fluorescent Protein)という緑色に発光するタンパク質の単離と精製に成功したことでした。

 オワンクラゲは、日本の沿岸などでよく見られる直径10~20センチメートルほどのクラゲです。このクラゲは、刺激を受けると生殖線がほのかに緑色に発光します。下村さんは、「オワンクラゲがなぜ緑色に光るのか」ということが純粋に気になったのですね。研究に取り組み、やがてオワンクラゲが発光に利用しているタンパク質の一つ、緑色光を発するGFPを単離・精製することに成功しました。

 この技術が確立された後、研究者たちは研究室の中で観察対象の細胞やタンパク質を光らせる方法として、これを利用しはじめました。GFPは単体で発光し、その際に外部要因が不要だという特性がありました。GFPをコードする遺伝子を細胞に導入したりタンパク質に連結したりすることで、なんと生命現象を追跡するマーカーとなったのです。発現したGFPは紫外線や青色光を当てるだけで発光しますから、標的の細胞などが生きた状態で追跡・観察できるようになります。これはライフサイエンスにおける画期的なイノベーションでした。

 その後、GFPは、ライフサイエンスの分野の研究に欠かせない道具となりました。現在では、GFPを改良したさまざまな人工の蛍光タンパク質がつくられて・利用されています。例えば、がんの細胞にGFPをつくる遺伝子を組み込こめば、生体内でそのがん細胞が存在する場所や移動していく様子が紫外線をあてるだけで観察できます。私は世界認知症審議会の副議長を務めていましたが、認知症の原因の一つであるアルツハイマー病の治療薬の探索や発症メカニズムの解明の研究にもGFPは利用されています。

 下村さんのオワンクラゲの発光現象に対する純粋な好奇心がなければ、今日のがんやアルツハイマー病の研究も成り立っていないわけです。これは、無駄と思われていた科学が、人類の最も偉大な技術的進歩に繋がることが多いのかについての一例です。

 

研究の多様性を維持せよ


 天然資源に乏しく社会の高齢化に悩まされる日本が国際社会でプレゼンスを発揮するためには、科学技術に頼るしかありません。その科学技術を高めるためには、多数の独創的な基礎研究を中長期的に育てることが重要となります。国の予算は、そのために使われるべきです。

 2018年8月、大変に不名誉な報告がアメリカのScienceに載りました。研究不正による論文撤回数が多い研究者のトップ10の半数を日本人が占めたというのです。国から競争的資金を得た場合、研究した証拠を速やかに残さなくてはいけません。すると、研究倫理より論文掲載を優先する研究者が出てきます。「選択と集中」によって過剰に競争させられた研究者が、プレッシャーから不正に手を染めているのでしょう。このあたりのさまざまな事例は、友人の黒木登志夫さんが『研究不正 ――科学者の捏造、改竄、盗用』という本に詳しく書いているので、ぜひ読んでみてください。

 近年、例えば日本工学アカデミーは「わが国の工学と科学技術の凋落を食い止めるために」と題して、「基礎的研究の能力強化のために、安定性を持つ公的資金の充実を図るべきだ」という緊急提言を行いました。アカデミアでも多くの研究者が、「『選択と集中』を考え直すべきである」と訴えています。しかし、国が政策を転換する様子はありません。世界の国々では基礎研究はじめ科学技術研究に持続的に大きな資金が投入されているのですが、日本では研究投資が異様なまでに低迷したままです。
予算の問題に関して、究極的には「GDPが増えていないところに社会保障費が増大している」のが原因ということになりますが……。かぎられた特定の分野に「選択と集中」して、かぎられた予算をやりくりしているうちに、日本の研究における中長期的な多様性は失われてしまいかねません。

 今こそ、私たちはフレクスナーに学び、「役に立たないこと」の計り知れない価値に焦点を当てなくてはいけません。特に、政策立案に関わる方、研究に携わる方、研究を志す方でまだ読んでいないという人は、今すぐに読みましょう。国は以前から「優秀な科学研究人材を育てたい」と言っていますが、ならばこのエッセイを高校生の英語のテキストに採用すれば効果的だと思いますよ。

 

ノーベル賞繋がりで……


 線虫感染症の新しい治療法を発見した功績で、2015年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞された大村智さんのエッセイの新刊(『まわり道を生きる言葉』)を読みました。大村さんはノーベル賞の授賞式に私を招待してくれた友人ですが、いつの間にか日本エッセイスト・クラブの会長になっておられたのですね。化学者でエッセイストというのは日本では珍しいですね。自然科学分野のノーベル賞受賞者でということなら、世界でもほとんどいないのではないのでしょうか。化学者らしい観察眼と思索から綴られるエッセイから、大村さんの純粋な「科学する心」と「教育の哲学」を感じました。

左:Abraham Flexner (with a companion essay by Robbert Dijkgraaf)『The Usefulness of Useless Knowledge』Princeton Univ Pr 、右:大村智『まわり道を生きる言葉』草思社

主張<4> 国会事故調発足12年――変わらない日本社会

国会事故調同窓会が開催


 5月末に衆議院原子力問題調査特別委員会が開催されました。そして、今月の頭には、都内の某所で「変わらぬ日本と変わる私たち・これまでの12年間と次のステップ」と題した国会事故調の委員の同窓会が開かれました。残念ながら私は発熱でその日だけ欠席となりました。しかし、報告書作成などで汗を流したメンバーの多くが集まり、闊達な意見交換が行われたと聞いています。

 2年前、「福島第一原発事故発生から10年」ということで、さまざまなところに招かれて意見を述べました。それ以前から私は「日本は事故を教訓にして変わらなければならない」と説いて回っているのですが、10年の節目でも、それから2年がたった現在でも、日本社会は原発事故から学んでおらず、何も変わっていない、と私は感じています。

 

当時の菅直人総理からは返事がなかった


 国会事故調ができるまでのことを、今でもはっきりと覚えています。原発事故が発生した直後から、私は政府の対応に強い懸念を抱いていました。未曽有の大規模原発災害が起き、世界中で事故の調査と分析が進められているのに、当事者である日本政府と原子力産業界が、国民や世界に対してまったく情報を開示していなかったからです。私は、日本学術会議会長や内閣特別顧問など、科学者と政府の間に立つ役割を長く担ってきましたので、その立場から、当時総理大臣だった菅直人氏に「独立した国際的な調査委員会を一刻も早くつくるべきである」という意見書を届けました。しかし、返事はありませんでした。そこで、海外の識者たちと情報交換をしながら与野党の国会議員に直接会って働きかけを続けました。

 震災から半年がたった2011年の9月末、ようやく事故調査委員会の発足が決まりました。実に、事故発生から半年以上がたっていました。そして、12月8日、事故発生から9カ月がたってようやく「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)が国会に正式に発足し、私は委員長就任を要請されました。私があちこちに顔を出して、独立調査委員会を設置するように説いていたからでしょう。

 国会事故調の委員は、私を委員長として、マッキンゼー・アンド・カンパニー出身の社会システムデザイナー、都市防災を専門とする地震学者、チョルノービリ原発事故の国際支援に携わった経験のある元国連大使、放射線医学を専門とする医学博士、元名古屋大学高等検察庁検事局の弁護士、ノーベル賞を受賞した分析化学者、元原子炉エンジニアの科学ジャーナリスト、ガバナンスを専門とする法科大学院教授、被災自治体の商工会会長など、政府から独立した民間人で組織されました。このような委員会構成は、アメリカ大統領スリー・マイル・アイランド事故調査特別委員会(通称、ケメニー委員会)を参考にしたと聞いています。委員の独立性を確実に担保するため、メンバーは事前に徹底的な「身体検査」を受けました。

 

日本憲政史上初の独立調査委員会


 国会事故調は、法律で設置が決まる唯一の独立調査委員会でした。つまり、政府・役所から独立して、調査権限とスタッフの起用権限があり、国政調査権を発動でき、出頭や資料提出に強い権限を持っていました。このような委員会ができるのは日本の憲政史上初であり、私がそのことを欧米の識者たちに説明すると、「あり得ないね」と驚かれたものです。日本は先進的な民主主義国家とされていながら、これまで三権分立がまともに機能していなかったということです。

 私たち国会事故調は、約6カ月という極めて限られた期間で、調査の結論を出すように求められました。その6カ月間、メンバーは不眠不休に近かったと思います。国会事故調は、延べ1167人の関係者を対象とした約900時間におよぶインタビューと聞き取り調査、1万人を超える被災住民アンケート、3回のタウンミーティング、国内にある複数の原子力発電所の視察、チョルノービリ原発など計3回の海外での調査を実施しました。20回の委員会はすべて公開で行いました。そして、2012年7月5日、「福島第一原発事故は地震と津波による自然災害ではなく、明らかな『人災』である」と結論づけた、526ページからなる報告書を国会に提出しました。この報告書はウェブサイトに日本語と英語で掲載し、全世界から自由に閲覧できるようにしました。書籍にもしました。

 ちなみに、事故の当事者である政府や東京電力なども、それぞれが事故調査委員会を立ち上げていました。しかし、その事務局を務めたのは官僚や東京電力自身です。身内による調査ですから、報告書に組織に都合の悪いことは書かれません。そのような報告書では、失敗から学ぶことはできません。これらの事故調査委員会の報告書は、政府や東電の責任に明確に踏み込んでいませんでした。独立していないからです。

 

今も棚ざらしにされている報告書


 報告書の中で、国会事故調は、原子力に関する基本的な政策と行政組織の在り方について、「7つの提言」を行いました。この提言については、内閣府のウェブページや私の著書『規制の虜』(講談社)に詳しく出ていますので、ぜひ読んでみてください。 国会に正式に提出された報告書なのですから、国会はすみやかに討議を行い、実施計画を策定すべきです。しかし、報告書を受けて衆議院に原子力問題調査特別委員会が設置されたものの、実質的な議論は事故発生から13年がたっていまだほとんど行われていません。私たちが不眠不休でとりまとめた報告書は、現在までほとんど顧みられないまま、棚ざらしにされています。調査の過程で集まった段ボールに70箱余りの資料も、国会図書館内にただ眠っているだけです。この貴重な資料に、一般国民はアクセスもできません。

 

責任をとらない日本のエリート


 日本社会は原発事故を教訓として、学び、変わらなければいけなかったはずです。しかし、国会事故調報告書の扱いを見るかぎり、事故を引き起こした東京電力、政府、国会議員、経済産業省、原子力規制委員会といった産官学の当時のリーダーたちがそのことを自覚しているようには思えません。

 実際、国会事故調の調査のなかで、私は、原発事故の当事者であるこの国のいわゆる「エリート」とされるたちの無責任さに幾度となく遭遇しました。みんな、私たちの聴取に対して正面から答えず、追求されると意味の通らない答えに終始してひたすら逃げるばかりでした。彼らはいざ責任が生じる段になるとひとごとのように振る舞いました。そして、取り巻きの人々はそのような無責任な姿を見てなお、彼らに忖度し続けました。責任ある立場にある誰もかれもが、「この場を逃げ切れば、やがて事態は風化して、誰も責任をとらなくてよくなる」と考えているように、私には思えてなりませんでした。福島第一原発事故で私たち国会事故調のメンバーが見せつけられたのは、そんな日本社会の現状でした。

 これは、原発事故にかぎった話ではありません。日本社会にあるどのような組織でも同じような事が起きているのは、不祥事のニュース報道などでみなさんもよくご承知でしょう。不祥事を起こした後、責任者らしい人がテレビカメラに向かって頭を下げはしますが、実際の責任はうやむやであり、組織は変わらず、有効な再発防止策は講じられません。

 

日本社会を変えるためには個人が変わらなくてはいけない


 全体としての日本人は、世界的にみて優れている方なのでしょう。しかし、中枢にいるエリートに、大局観を持っているものがいません。誰が決め、誰が責任者なのかがはっきりしないため、多くの組織がグループシンク(集団浅慮)のわなに陥っています。これは、わが国にとって不幸なことです。失敗から学ばず、変われなければ、日本ではまた福島第一原発事故のような致命的な失敗が繰り返されることでしょう。

 福島第一原発の事故では、ずっと政治の見識や責任が問われているはずなのですが、その政治が機能しておらず、日本社会は変わっていません。個人で問題意識を持っている方は大勢いるでしょう。しかし、忖度や組織の同調圧力(グループシンク)の中で誰も「おかしい」と言わないから、何も動かず、変わりません。

 個人が勇気をもって発言し、それが民意として影響力を持つような社会でなければいけません。日本社会を変えるためには、まず私たち一人一人が、しっかりと声を出すような国民にならなくてはいけません。国民が変われば、その国民の代表である政治家、ひいては国が変わるはずなのです。

国会事故調同窓会の様子

主張<3> Nature Index 2024の「日本にポジティブな変化が見られた」は本当か?

5月某日、政策研究大学院大学にて。聖心女子大学教授のデイビット・マックニール博士と

デイビット・マックニール博士来訪


 各国の科学研究への貢献度についてまとめたオープンなリポートがNature Indexです。その2023年版であるNature Index 2023で“Will Japan’s new ¥10-trillion university fund lift research performance?”という記事を執筆されたデイビッド・マックニール博士が政策研究大学院大学の研究室にいらっしゃったので、日本の科学研究力についてディスカッションを行いました。

 Nature Index 2023では、中国の科学研究のアウトプットが長年にわたり科学研究で世界トップを走っていたアメリカを抜き、すでに世界1位となっていることが報告されました。中国は、国内総生産(GDP)に占める研究開発費の割合を前年比で上昇させており、2015年から2021年にかけて、質の高い研究成果において89%という飛躍的な成長を達成したとされています。

 一方の日本はといえば、研究開発費のGDPに占める研究開発費の割合は横ばい。高等教育への公的支出も2019年はGDPのわずか0.5%です(アメリカは0.9%で、ドイツやフランスはその2倍)。各指標からも日本の研究能力の低下は明らかでした。私がデイビッド・マックニール博士からインタビューを受け、そのコメントが“Will Japan’s new ¥10-trillion university fund lift research performance?(日本の10兆円大学ファンドは成果を上げるか?)” という特集に掲載されたのは、以前のコラムでみなさんにお知らせした通りです。

 

Nature Index 2024がリリース


 6月18日に、その最新版Nature Index Research Leaders 2024が公開されました。早速目を通してみますと、中国は相変わらず猛烈に成長しています。欧米がシェアを落とすなかで中国の研究のアウトプットは前年比で13.6%も伸び、研究機関の総合ランキングでも上位10のうちの7つを中国の機関が占めました。興味深いところでは、インドの科学力が急激な成長を見せていました(インドのGDPは2025年に日本を抜いて世界4位になるとされています)。さて、日本はといえば、論文数の国別ランキングで2016年以降変わらず5位をキープしていました。2023年の研究論文の数においては、他国と比べて減少率が比較的ゆるやかであり、Nature Indexは「ポジティブな変化が見られた」としています。

 

Nature Indexの指標は実態を反映しているか


 ただ、このリポートを読んで私たちは喜んではいけないでしょう。「論文数の減少率が比較的ゆるやかであった」といっても、すでに2017年から2022年にかけて約20%も減らしたうえ、2022年から2023年にかけてさらに1.7%も落ちているのです。また、Nature Indexでは採用されていませんが、「科学技術指標2023年」で見られるように、被引用数「トップ1%論文」や「トップ10%論文」においては、順位が下がり続けています。

筆者

 私は、Nature Indexの指標よりも被引用数による指標の方が、より実態を反映していると思うのですがね。この1年で、文部科学省の「10兆円規模の大学ファンド」が何か成果を上げたわけでもなく、日本のGDPも増えていません。何より、日本の研究機関において、上級研究員や指導教官の多くがその研究機関の出身であるという「縦割りシステム」が変わっていません。

 

「たこつぼ」になっている日本の大学


 例えば、日本では最高峰とされている東京大学の教員には、東大出身者が非常に多いのです。このことについて、私は「四行教授」という言葉をつくりました。履歴書に「東京大学卒業、東京大学助手(助教)、東京大学助教授(准教授)、東京大学教授」と四行だけ記されているような人のことです。近年は、ここに「海外に2年だけ行って帰ってくる」が追加されることもあるようですが、数年の滞在では独立して何かできるわけもなく、基本的には古巣の教授のひも付きです。

 「そんなの当たり前じゃない?私が教わった先生もそうだったよ」という方がいるかもしれませんが、それは世界の研究シーンでは異様な光景なのです。考えてもみてください。そんな「たこつぼ」のような環境で行われる研究に、斬新なアイデアや多様性が生まれるでしょうか? 海外の大学に比べて多様性に乏しく、均一性が高く、国際性が低く、男性ばかりで女性がいない。外国人もいない。そんな東大は、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが発表する世界大学ランキングで29位です。東大でこれですから、他の大学については言うまでもありません(沖縄科学技術大学院大学OISTのような例外もごく一部にあります。これは、次回以降に書きましょう)。

 

本当に「ポジティブな変化」が起きているのか?


 私がかねてより、「研究機関の中が縦割りになっていることこそが、日本の研究力低下の病巣である」としつこく主張していることは、みなさんもご存じでしょう。研究資金の獲得も大事でしょう。しかし、それ以上に大事なのは、大学の研究室の指導者が、大学院生をもっとアメリカ、イギリス、中国、オーストラリアなど海外に送り出すことだ……そう私は主張し続けているのですが、なかなか変わりませんね。はてさて。実際、この1年で日本の科学研究力に「ポジティブな変化があった」と言えるのでしょうか?

デイビット・マックニール博士

 研究室にいらっしゃったマックニール博士とは、このような話をしました。日本の科学研究はなぜダメになったのか? ソリューションは何なのか? 彼が2023年の記事の追跡調査をしてくださるそうなので、楽しみに待ちましょう。

GHIPP スペシャルダイアログ:「ヘルスと気候変動:太平洋諸島の課題と教訓から~日米にできることとは?」

GHIPP スペシャルダイアログ(第31回)

Topic:「ヘルスと気候変動:太平洋諸島の課題と教訓から~日米にできることとは?」

スピーカー: アイリーン・ナツジ氏(ジョージタウン大学)
コメンテーター: 黒川 清 名誉教授(GHIPP)
司 会: 村上 博美(GHIPP)
言 語: 英 語(通訳はありません)
日 時: 2024年7月13日(土) 15:00-16:00 日本時間
会 場: オンライン
参加費: 無 料
お申し込み: https://hsd31.peatix.com
詳細はこちら: https://ghipp.grips.ac.jp/news/

主張<2> 次世代のサイエンティストをどのようにつくるか?

一夜にして症状を緩和する特効薬はない


 前回のコラムでも述べたように、日本の科学研究力は凋落の一途をたどっています。残念ながら何十年もかけて進行したこの病を、小手先の対応で治すことはできません。可能性があるとすれば、極めて当然ですが、優秀な若手の博士研究員(ポスドク)の育成でしょう。人を育てるのですから、それは一朝一夕にはできないことです。ただ、次世代のサイエンティストの育成に真剣に取り組まないかぎり、日本の科学研究に未来はありません。

 今となっては日本でもメジャーな「ポスドク」は、元々アメリカで生まれた制度でした。日本では、90年代に「大学院重点化計画」というものを立ち上げた際に、アメリカをまねしてポスドク制度が広く導入されました。日本に研究者を増やし、日本の基礎研究力を強化するのが目的でした。1996年度から2001年度までの5カ年計画として閣議決定された科学技術基本計画では、「ポスドク一万人創出」という目標が掲げられ、実際1996年には6224人しかいなかったポスドクは2002年には1万1127人に増えました。数字の上では、見事目標は達成されたのです。しかし、実際のところ、日本のポスドク制度とアメリカのポスドク制度は似て非なるものでした。雇用慣行や社会制度のちがいもあるでしょうが、本来、ポスドクは何のためにあるのかを理解しないままに制度が導入され、これが問題でした。

 

外に出ない日本のポスドク


 私も身をもって経験していますが、アメリカにおけるポスドクは研究者の「武者修行の場」です。大学院で博士号を取得した後、古巣とは別の研究室に任期付きで所属し、テニュアトラック、そしてテニュア(終身雇用)の地位を目指します。これが非常に狭き門で、生き馬の目を抜くような世界です。ポスドクに進んだ若手研究者は自らの研究室を主宰できるようになる日を目指し、死に物狂いで勉強し、働きます。このとき、「別の研究室に行く」というのがポイントです。欧米のアカデミアに、古巣にずっといるような研究者はいません。

 私が渡った半世紀ほど前から今まで変わらず、世界の研究の中心にあるのはアメリカです。そのアメリカに一時ビザで滞在して研究をする人たちの国籍別データがあります。年によって多少の変動はありますが、近年は中国からの滞在者が最も多くて毎年4000~5000人。インドが約2000人、韓国が1200人、台湾が700人。さて、日本はというと、これがなんと200人以下です。人口7000万人のタイにも及ばないのですから、いかに日本の研究者が、外に出ずに閉じこもっているかがわかるでしょう。

 むかしから、日本人の研究者は海外に出て行こうとしないのですね。出たとしてもたいていは2~3年。それで「十分に箔は付いた」とばかりに、帰国して元いた研究室で働き始める。そんな人がひところは大勢いました。教授の手足として働き続けて、そのうち助教なり准教授なりに取り立ててもらおうという考えです。

 文部科学省の学校教員統計調査によれば、日本の大学教員の自校出身者の割合は、全体平均で約32%、国立大学教員では42%超え。欧米の大学に比べて非常に高い数字です。同じ環境にずっといて、教授の下で教授のテーマに関連する研究をやったとして、そこに研究者としての創造性はあるでしょうか? 教授のひも付きで数年しか「武者修行」をしなかった研究者が古巣に持ち帰るアイデアやコネクションなど、どれほどのものでしょうか? そんな日本の研究室には魅力がないのでしょう、海外からの研究者もやって来ません。国際的な研究ネットワークは、日本の研究室を「孤島」と揶揄しています。

 

日本のポスドクのキャリアパスの不透明さ


 日本のポスドクが国際的に活躍できないのは、そのキャリアパスが極めて不透明であることも影響しているでしょう。科学技術政策研究所の「研究組織の人材の現状と流動性に関する調査」によれば、海外で研究したいという若手研究者の意欲を阻害する最大の要因が「海外へ移籍した後、日本に帰ってくるポストがあるか不安である」ということでした。

 日本でアメリカのポスドク制度を導入したとき、その出口については深く考えられませんでした。文部科学省の「ポスドク調査」によれば、日本でポスドクから正規職に移行できる研究者はわずか6.3%。内訳は大学教員が約5割、4割が研究機関の研究員であり、研究開発職以外の雇用は1割もありません。日本の若手研究者は大学にしかポジションがなく、その枠も極めて小さいということです。これが欧米では、民間企業の博士採用がそれなりにあり、博士号を持った人材が社会でしっかりと活躍しています。「博士号をとった後に路頭に迷う」ということが日本ほどは起こりません。

 

若手研究者は海外に出ましょう/出しましょう


 ただ、やはり、いま日本でポスドクをやっている人、これからやろうとしている人は、積極的に海外に出ていくべきです。非常に厳しい研究競争の世界ですが、そこで5~10年と組織を渡り歩いて居着けるようであれば、「高等教育を受け、高度な専門性を持つのに、食うにも困る人々」いわゆる「高学歴ワーキングプア」などにはならないでしょう。若いときのある時期に必死に勉強や研究に取り組んで「独立」した人であれば、欧米の大学や企業はその取り組みをフェアに評価してくれます。

 そして、日本の大学の教授は、大学院生や若手研究者に海外に出るチャンスを積極的に与えましょう。自分の研究テーマや知識を引き継ぐ「弟子」を育成することが、教授の仕事ではありません。次世代を切り開く独立した研究者を育てることこそが、高等教育に携わる者の責務です。人材を「育てる」ということとは、「知識を与える」ことではありません。若者は、機会が適切に与えられさえすれば自然と知識を会得し、自ら走りだします。

 独立した若手研究者は大学、企業、研究機関を、自らの自由意志で渡り歩きます。そのような人が増えれば、たこつぼに引きこもっている日本の研究現場の人材流動性も高まるでしょう。研究者は、渡り歩いたさまざまな組織が持っているノウハウ、新しいアイデア、多様なアプローチ方法、発想などを、滞在する先々にもたらします。海外では当たり前に行われているこのことが日本ではできていないから、日本の研究力は落ち続けているのです。