日本を凋落させている原因
日本が抱える大きな問題の1つが、この30年間、主要国の中で日本の経済だけが成長していないという事実です。成長していないどころか、衰退のトレンドにあります。国や地域の生産性の高さの目安となる一人当たりの名目GDPの推移を見ると、日本は2001年に世界5位であったものが、その後、順位を下げ続け2024年には何と世界39位。すでに、お隣の韓国(33位)や台湾(37位)にも追い抜かれてしまいました。加えて、IMFが今年の10月に出した世界経済見通しのレポートでは、「日本の1人あたり名目GDPはさらに減少する」ということですから、日本の凋落はとどまるところを知りません。
日本を凋落させている原因のいくつかは、すでにこのブログでも述べてきました(例えば、主張<1> 常に「なぜか?」を考えよ)。一つには、グローバル社会の中で予測のできない大きなうねりを見せる世界経済に、日本の社会や産業の構造がまったく対応できていないということ。毎回のように言っていますが、「タテ社会の終焉」ですね。そして第二には、日本が世界一の高齢化社会になっているということ。これが今回のイシューです。
世界1位の高齢化社会
この100年間、生命科学や医学の進歩、そして多くの臨床経験の蓄積によって、人類は飛躍的に長寿化しました。人が、より長い時間その人生を謳歌できるようになったことは、基本的にはよいことです。しかし、女性は60歳を、男性は70歳を過ぎたくらいから、生物学的には体が弱くなってきて、認知機能なども衰えはじめます。
国の人口における高齢者の割合が増えると、年金・医療・介護などを支える財源が不足し、労働資源の問題も発生し、経済先進国であれば経済成長が止まってしまいます。今の日本が陥っているのはまさにこの状態ですね。
日本の国民の平均寿命は世界1位。手元のデータを見てみると、日清戦争が行われていた1890年代の日本人の平均寿命は男女ともに40歳代だったようです。それが1950年代になると男女共に60歳代となり、直近の2015年では男性80.8歳、女性87.0歳となっています。どんどん伸びていますね。今や、「人生100年時代」などと言われているのは、みなさんご存じのことでしょう。
私も現在は88歳と、後期高齢者となって久しいのですが、毎日、ものを考えながら仕事をしているおかげか、それなりに元気に働いています。90歳近くの人間が働いているなんて、一昔前の社会の常識では、考えられないことかもしれません。現在、日本国内総人口に占める65歳以上の割合は約30%。日本というのは、実に国民のおよそ3人に1人が高齢者である国なのです。
認知症のコストは膨大
人は高齢になると、さまざまな病気の問題が起きるようになります。その代表的なものの1つが「認知症」です。日本における認知症に関係するコストは、近年ではGDPの4%、約16兆円にものぼるといわれています。ちなみに、認知症コストの約50%が、主として女性が家族などをサポートするのにかかる表面に出てこないコストとされています。この数字は決して無視できません。認知症が日本の経済成長を押し下げている要因の一つであることは確かです。
日本は過去30年にわたって経済成長しておらず、すでにGDPの200%を超える負債を抱えていますから、医療・介護・社会保障の予算は増額が難しい状況にあります。そのような状況下で、2025年には日本の認知症患者は700万人にまで増加し、65歳以上の人口の約3分の1が認知症予備軍となると推定されています。日本はこの課題に対して、早急に対策を講じなくてはいけません。
日本発の高齢化・認知症対策
進行する社会の高齢化や増加する認知症患者に対して、さまざまな取り組みがすでに行われています。みなさんもニュースなどで耳にしたことがあるかもしれません。例えば、全国津々浦々に店舗を展開するコンビニエンスストアのネットワークを、高齢者宅への日用品などの配送に活用するビジネスが始まっています。同様の取り組みは、国内のほぼすべての地域に展開している郵便局でも可能かもしれません。コンビニエンスストアと郵便局のどちらも、今後増加が予想される高齢者に対応するための重要なインフラとして役立つでしょう。
金融機関の窓口も、頻繁に来店する高齢者に特別な配慮をするようになってきました。近年は認知機能の衰えた高齢者をターゲットにした特殊詐欺が横行していますから、これに対応するためです。
認知症については、コミュニティーにおける認知症の支援者を養成する「認知症サポーター」というプログラムも行われています。養成講座を受講して認定された「認知症サポーター」は、認知症の疑いがある人に注意をうながし、介護者と連携して認知症患者へのケアを行います。このプログラムは非常に評判がよくて、2022年1月の時点ですでに1364万人のサポーターが生まれています。現在、これを日本発の認知症対策として世界展開することが考えられています。
AIを搭載したロボットの活用も検討されています。認知症の進行を遅らせるためには、患者に外部から認知的な刺激を与えることが重要だとされています。単なる機械的な介護ではこれは難しいですが、例えば会話ができるAIを搭載したロボットのように、人間的なインターフェースを備えたものなら、患者に社会的な刺激を提供することが可能です。AIに関しては、近年、OpenAIが開発したChatGPTのような生成AIが登場しています。私も試してみましたが、まるで人間のように自然な対話ができ、数年前には考えられなかった技術の進歩に驚かされました。生産は終わってしまいましたが、ソフトバンクの「ペッパー」のようなロボットに生成AIを搭載し、より人間に近いコミュニケーションで患者をサポートすることで、患者の生活の質を向上させたり、介護のコストを削減したりすることが期待されます。
ただ、これらの取り組みは、まだテストマーケティング、調査研究の段階であり、社会全体の連携やさらなる展開にはもう少し時間がかかりそうです。
サンプルの多さを活用して「認知症ビッグデータ」をつくれ
2013年にロンドンで開催されたG8サミットをきっかけに、2014年4月、世界認知症審議会(WDC:World Dementia Council)が設立されました。世界各国の産官学民あらゆるメンバーが参画し、グローバルレベルで認知症対策を促進することを目的とする独立・非営利の団体です。議長国イギリスのデーヴィッド・キャメロン首相(当時)は、「イギリスは認知症対策に国を挙げて取り組みます」ということを、世界に宣言した形になります。
私もメンバーに招かれ、副議長(Vice Chair)に就任しました。イギリス大使館から突然、「WDCを立ち上げました。ぜひ黒川博士にもご参加いただきたい」という内容のメールが届き、要請されたのです。以前から私が、「認知症対策には早期診断が大事で、それにはバイオテクノロジーだけでなく、デジタルテクノロジーやAIテクノロジーが重要である」と、主張していたからでしょうね。私は、世界各地で開催されるWDCでも同様の提言を続けました。
デジタルテクノロジーはバイオテクノロジーよりもずっと急速に進歩しています。近年では、人間の健康にまつわるビッグデータを容易に入手・解析できるようになり、これまで以上の多くの相関関係・因果関係を述べられるようになってきました。
年齢、家族歴、遺伝的背景、教育、運動、喫煙、飲酒、睡眠など、認知症を発症する要因には多くの仮説があります。これまではこれらのファクターを個別に検証しなくてはなりませんでしたが、ビッグデータを網羅的に相関解析すれば、さまざまな仮説をまとめて検証できるでしょう。これまで思いつきもしなかった仮説が生まれ、認知症の予防法や治療法の開発が飛躍的に進むかもしれません。
2020年、これらの私の主張を、イギリスの週刊新聞「The Economist」の記者が取材しにきました(2020年8月29日号)。なかなか勉強しているなと感心したものです。
「The Economist August 29th 2020」
なぜ私が認知症対策についてこのような主張をしてきたかというと、専門としている腎臓病の分野で似たような経験をしているからです。慢性腎不全の透析治療の分野では、30年ほど前から透析に関するデータを世界中から集め、分析するという長期の臨床研究が行われてきました。当時は「臨床の質問」を公募するというものでしたが、これは現在「ビッグデータ」と呼ばれるもののはしりですね。そしてこの研究は、例えば、「日本の慢性腎不全の治療成績が欧米よりよいのは、シャントの質がよいからである」といったように、慢性腎不全の治療成績の向上やコスト分析に大きな貢献してきました。ビッグデータ(のはしり)の分析で、ブレイクスルーが得られたのです。
先に述べた通り、日本は認知症先進国であり、大勢の患者がいます。これは、「認知症に関する大量の生データを持っている」ということでもあります。このビッグデータを活用しない手はありません。
すでに、アメリカのデジタル企業は、人々の健康に関するビッグデータ収集を積極的に行っています。例えば、皆さんが腕に巻いているApple Watch。このスマートウオッチからは、心拍数、エネルギー消費量、血中酸素濃度、活動記録、睡眠情報といったさまざまな生体情報が長期的に収集されています。AppleはApple Health Studyと銘打って、収集したデータを研究機関と共に分析し、健康増進サービスをつくっています。
世界が日本に注目している今がチャンスである
高齢化と認知症はあらゆる国で不可避な社会的なリスクです。世界の60歳以上人口は、2017年の約9億6000万人から、2050年にはその2倍の約21億人になると予想されています。そして、2015年時点で世界には約4680万人の認知症患者がいましたが、予測ではこれが20年ごとに倍のペースで増えていき、2030年には7470万人、2050年には1億3100万人になるといわれています。
2015年時点における認知症に関連する医療・介護コストは、世界全体で約8180億ドル、2030年には2兆ドルに達すると予測されています。この金額を一国の経済規模に置き換えると、世界第18位に相当します。
そしてやはり、認知症患者の介護はローコストで家族が担うケースが多く、とりわけ女性が負担をします。今まさにこのとき、世界中で多くの女性が認知症の親や家族の介護を引き受けており、社会進出を断念しているのですね。また、介護によって失われる労働力は統計に反映されにくいため、この問題は潜在化しています。
日本人の高い長寿率と、それを支えている食事・栄養・運動などに関する知恵と経験は、すでに世界中の科学者や医師に知られており、リスペクトされています。経済先進国であると同時に高齢化先進国でもある日本が、今後、高齢化と認知症の問題にどのような対策を講じるのか、世界が期待と関心を寄せて注目している状況です。近年、日本は国際社会で十分な存在感を発揮できていませんでしたが、世界に注目されている現在の状況は、日本にとって大きなチャンスと捉えるべきです。
日本が率先して国民の医療ビッグデータを収集・活用し、「成熟した長寿社会」という新たなモデルを世界に示す。世界に先駆けてテストマーケティングを行い、高齢化や認知症のコストを削減するノウハウで世界シェアをとる。そうすれば、30年元気がなかった日本が再び主要国の中で存在感を取り戻すことも可能である――為政者や起業家の方々には、そういう感覚をぜひ持ってほしいと思います。
来年から私は、認知症に関する新たなプロジェクトをはじめる予定です。進展があったところで、またみなさんにお知らせする機会もあるでしょう。楽しみにしていてください。