科学研究の「神髄」
このブログの読者には、科学研究に携わる方やこれから携わっていこうと考えている若者が多いようです。今回はそんな方々に向けたコラムを書いてみます。
みなさんは、エイブラハム・フレクスナー(Abraham Flexner)の”The Usefulness of Useless Knowledge”というエッセイを読んだことがあるでしょうか? エイブラハム・フレクスナーといえば、世界最高峰の学術研究機関であるプリンストン高等研究所の初代所長であり、アルバート・アインシュタインや野口英世の上司でもあった人です。このエッセイは、そのフレクスナーが1939年に書いたものです。数十ページの短いものですが、これがアメリカでは「科学研究の神髄が語られている」とされています。実際、私がアメリカにいた頃に出会った研究者で、このエッセイを知らない/読んだことがないという人は一人もいませんでした。例外なく全員が、読んでいるのです。
現在、このエッセイにプリンストン高等研究所前所長(第9代所長:2012年~2022年)のロベルト・ダイクラーフ(Robbert Dijkgraaf)氏のエッセイを加えたものが、1冊の書籍として出版されています。ダイクラーフのエッセイはフレクスナーの主張を補強するものです。ダイクラーフは、「現在において、フレクスナーのエッセイは、それが書かれた20世紀初頭以上に重要となっている」と言っています。Amazon.co.jpで売っていますので、まだ読んだことがないという方はぜひ手に入れて読んでみてください。90ページくらいの薄いハードカバーの本です。難しい英語は使われていませんから、すぐに読めるはずです。2020年には東京大学出版会からも訳書(エイブラハム・フレクスナー&ロベルト・ダイクラーフ著/初田哲男監訳、野中香方子・西村美佐子訳『「役に立たない」科学が役に立つ』が出ているようですので、「英語はちょっと……」という方はそちらを読まれてもいいでしょう。
役に立たない知識が役に立つ
エッセイに書いてあるのは、表題のとおり「役に立たない知識が役に立つ」ということです。実用や応用を気にせずに純粋な好奇心で科学を追究すると、偉大な科学的発見や技術革新に繋がることが多いということが説かれています。要は、「基礎研究が大事であり、それがしばしば予期せず驚くべき有用性を人類にもたらす」ということです。
科学研究とは、「この世界の真理を明らかにして人類が新しい知見を得る」という営みです。どんな知識から将来の人類にとって有用な技術が生まれるのか、いつ生まれるのかは、誰にもわかりません。それが容易に見極められるようなら、そんなものはとっくに先人が研究して結果を出しているはずです。これまで容易に結果が得られなかった領域だからこそ、そこに誰も知らないイノベーションが埋まっている可能性があるのです。だからこそ、基礎研究においては、さまざまな研究者が自身の興味や発想をもとに制約なく真理を探究することが大切です。
フレクスナーが説いたように、人が純粋に知りたいことを追究していった結果、そこで得られた新しい知識が後の世で役に立つ“こともある”、というのが科学研究の自然な姿であると私も思います。私がアメリカで出会った学生や研究者たちも、そう考えていました。彼らは、「研究で行き詰まるたびにこのエッセイを読み返し、モチベーションを高めたりインスピレーションを得たりしているよ」と言っていました。アメリカの研究者にとってのこのエッセイは、まるでキリスト教の司祭が持つ聖書のようなものです。
さて、その”The Usefulness of Useless Knowledge”を、日本の学生や研究者は読んでいるでしょうか? 国の科学技術政策に携わり研究予算をどのように配布するかを決めている政治家や官僚の方はどうでしょうか? 一昔前の方なら読んでいたかもしれません。しかし、これまでに機会があれば尋ねてきたところでは、どうも多くの若い方は読んだことがないようです。存在も知らないようでした。
「選択と集中」でよかったのか
日本の科学技術力の低迷が言われ始めた頃、国は研究分野を選択して短期間に集中投資することで、これを巻き返そうとしました。そして、第三期科学技術基本計画で「選択と集中」を謳い、大型の研究費を東大や京大など特定の大学や研究に集中させるようになってから、もう20年くらいになります。20年といえば生まれたての赤子が立派な大人になるくらいの年月ですが、みなさんもよくご存じのように、この間に日本の科学研究の世界的なプレゼンスはどんどん失われています。
フレクスナーの哲学に従えば、幅広い分野の基礎研究に長期的に資金を投入することこそが、科学技術力を向上させるはずです。こういったことは、研究の現場を知る人であれば自ずと感じ取るようなことです。それがわからないのは、日本の政治家にも官僚にも、研究の経験者すなわち博士号取得者が少ないからかもしれません。
日本の「選択と集中」は、ある面では、実用分野に予算を多く振り分け、基礎研究を切り捨てる戦略です。研究大国アメリカの研究者がバイブルとしている”The Usefulness of Useless Knowledge”には、基礎研究こそがイノベーションの必須条件であるということが書かれているのですが……日本は「選択と集中」でよかったのか、改めて考えさせられますね。
基礎研究の重要性を裏付ける研究結果が、少し前に筑波大学などの研究グループによって報告されていました。「ノーベル賞級の研究が生まれるプロセスを計量学的に解明した」という研究です。1991年以降に生命科学・医学分野に配布されたすべての科研費と研究成果の関係を調べたところ、研究への投資効率としては、少額の研究費を多くの研究者に配った方が、「選択と集中」よりも、萌芽的・ノーベル賞級のトピックの創出を促す効果が高いということが判明したといいます。
クラゲの研究がなければ今日のがん研究もなかった
ひとつ例を挙げましょう。2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩さんの受賞理由は、オワンクラゲの発光の仕組みを解明し、1962年にGFP(Green Fluorescent Protein)という緑色に発光するタンパク質の単離と精製に成功したことでした。
オワンクラゲは、日本の沿岸などでよく見られる直径10~20センチメートルほどのクラゲです。このクラゲは、刺激を受けると生殖線がほのかに緑色に発光します。下村さんは、「オワンクラゲがなぜ緑色に光るのか」ということが純粋に気になったのですね。研究に取り組み、やがてオワンクラゲが発光に利用しているタンパク質の一つ、緑色光を発するGFPを単離・精製することに成功しました。
この技術が確立された後、研究者たちは研究室の中で観察対象の細胞やタンパク質を光らせる方法として、これを利用しはじめました。GFPは単体で発光し、その際に外部要因が不要だという特性がありました。GFPをコードする遺伝子を細胞に導入したりタンパク質に連結したりすることで、なんと生命現象を追跡するマーカーとなったのです。発現したGFPは紫外線や青色光を当てるだけで発光しますから、標的の細胞などが生きた状態で追跡・観察できるようになります。これはライフサイエンスにおける画期的なイノベーションでした。
その後、GFPは、ライフサイエンスの分野の研究に欠かせない道具となりました。現在では、GFPを改良したさまざまな人工の蛍光タンパク質がつくられて・利用されています。例えば、がんの細胞にGFPをつくる遺伝子を組み込こめば、生体内でそのがん細胞が存在する場所や移動していく様子が紫外線をあてるだけで観察できます。私は世界認知症審議会の副議長を務めていましたが、認知症の原因の一つであるアルツハイマー病の治療薬の探索や発症メカニズムの解明の研究にもGFPは利用されています。
下村さんのオワンクラゲの発光現象に対する純粋な好奇心がなければ、今日のがんやアルツハイマー病の研究も成り立っていないわけです。これは、無駄と思われていた科学が、人類の最も偉大な技術的進歩に繋がることが多いのかについての一例です。
研究の多様性を維持せよ
天然資源に乏しく社会の高齢化に悩まされる日本が国際社会でプレゼンスを発揮するためには、科学技術に頼るしかありません。その科学技術を高めるためには、多数の独創的な基礎研究を中長期的に育てることが重要となります。国の予算は、そのために使われるべきです。
2018年8月、大変に不名誉な報告がアメリカのScienceに載りました。研究不正による論文撤回数が多い研究者のトップ10の半数を日本人が占めたというのです。国から競争的資金を得た場合、研究した証拠を速やかに残さなくてはいけません。すると、研究倫理より論文掲載を優先する研究者が出てきます。「選択と集中」によって過剰に競争させられた研究者が、プレッシャーから不正に手を染めているのでしょう。このあたりのさまざまな事例は、友人の黒木登志夫さんが『研究不正 ――科学者の捏造、改竄、盗用』という本に詳しく書いているので、ぜひ読んでみてください。
近年、例えば日本工学アカデミーは「わが国の工学と科学技術の凋落を食い止めるために」と題して、「基礎的研究の能力強化のために、安定性を持つ公的資金の充実を図るべきだ」という緊急提言を行いました。アカデミアでも多くの研究者が、「『選択と集中』を考え直すべきである」と訴えています。しかし、国が政策を転換する様子はありません。世界の国々では基礎研究はじめ科学技術研究に持続的に大きな資金が投入されているのですが、日本では研究投資が異様なまでに低迷したままです。
予算の問題に関して、究極的には「GDPが増えていないところに社会保障費が増大している」のが原因ということになりますが……。かぎられた特定の分野に「選択と集中」して、かぎられた予算をやりくりしているうちに、日本の研究における中長期的な多様性は失われてしまいかねません。
今こそ、私たちはフレクスナーに学び、「役に立たないこと」の計り知れない価値に焦点を当てなくてはいけません。特に、政策立案に関わる方、研究に携わる方、研究を志す方でまだ読んでいないという人は、今すぐに読みましょう。国は以前から「優秀な科学研究人材を育てたい」と言っていますが、ならばこのエッセイを高校生の英語のテキストに採用すれば効果的だと思いますよ。
ノーベル賞繋がりで……
線虫感染症の新しい治療法を発見した功績で、2015年にノーベル生理学・医学賞を共同受賞された大村智さんのエッセイの新刊(『まわり道を生きる言葉』)を読みました。大村さんはノーベル賞の授賞式に私を招待してくれた友人ですが、いつの間にか日本エッセイスト・クラブの会長になっておられたのですね。化学者でエッセイストというのは日本では珍しいですね。自然科学分野のノーベル賞受賞者でということなら、世界でもほとんどいないのではないのでしょうか。化学者らしい観察眼と思索から綴られるエッセイから、大村さんの純粋な「科学する心」と「教育の哲学」を感じました。
左:Abraham Flexner (with a companion essay by Robbert Dijkgraaf)『The Usefulness of Useless Knowledge』Princeton Univ Pr 、右:大村智『まわり道を生きる言葉』草思社