主張<10> 教育者は若者に「選択肢」を与えよ

人生に「選択肢」はいくらでもある

 

 私は14年間アメリカにいましたが、帰国して非常に気になったのが、日本の大学の学生の様子です。大学に入ってきた頃はすばらしく優秀なのに、学年が進むにつれて視野がどんどん狭くなっていく。これは、教育を施す側の問題で、日本の大学の教育レベルが低いということです。私がおもに見ていた医学の分野に話を絞ると、20代の頃は目を輝かせていた学生たちが、30歳ぐらいになると一様に活気がなくなります。そして、「①このまま医局に残るか、②関連病院に勤務するか、③開業でもしようか」という、わずか三択の狭い思考に陥っています。しかし、人一人の可能性として、海外に出て活躍しよう、もっと修行を積もう、免許をとったら何はともあれ世界を見て回ろう、国内の僻地医療に貢献しようetc. 本来もっとたくさんの選択肢があるはずなのです。特に今はグローバル時代なのですから、高等教育を受けた者が海外にいくらでも活躍の場を持てることは、みなさん知っているはず。それなのに、日本の大学教育の現場にいる教育者の多くが、いにしえの昭和の時代に自分が受けた教育スタイルを、そのまま今の学生に押しつけていました。

 日本の大学の教育者は、自分の研究テーマや業績だけに執心していて、次世代の人材を育てるという意識がないと感じることが多々あります。しかし、大学院生やポスドクは、教授が自身の業績を増やすために論文作成を手伝わせる手駒ではないはず。教育者の一番の誇りは、やはり自分の育てた学生であるべきであり、業績ということなら「どのような教え子を育てたか」でしょう。例えば、研究大国であるアメリカの学会は「有能な若者の見本市」のようなもので、来ている人はみんな「いい人材がいたらスカウトしよう」と思っています。見込みのある人材を見つけたら、「この若者を育てたのは誰だ」ということを必ず確認します。若者の学会発表では同時にその人を教育した教授の能力も見られているのですね。私がアメリカにいたとき、教え子の学会発表ではいつも自身の発表以上に緊張させられたものです。

 グローバル時代の教育者は、「現代における高等教育の本質とはなにか」を常に考えるべきです。そうすれば、己がなすべき仕事は、若者の一人ひとりに「自分が何をしたいか」をきちんと考えさせ、人生にはさまざまな「選択肢」があることに気づかせ、個として独立させることであるとわかるはずです。例えば「日本の常識が合わない」と悩んでいるような学生がいれば、場合によっては「それでいいのだよ」と励まし、海外に送り出したり、自分のツテを紹介したりして、彼ら彼女らにさまざまな選択肢があることを知らせる。ときには自らが既定路線から外れていく姿を見せる。それが、教育者の使命といえます。日本の学生の視野が狭く、既定路線から外れて一歩踏み出すことを極端に恐れる傾向があるのも、結局は、彼らの上に立って教育をしている人間が、自ら「選択」をしてこなかったからです。上の世代の教育者が広い世界にあるさまざまな可能性を知らないがために、狭い日本の中で既定路線を進むしかないと思い込んでしまう学生が少なからずいる。それが、いまの日本の閉塞感を生んでいる原因の一つでもあるでしょう。

 

定年1年前に東大を辞めて3か月で東海大学に異動

 

 私は1996年に、東京大学医学部第一内科教授の任期を1年余り残して、東海大学に移動しました。3月に発表して、7月には赴任。みささんに「え!? どうして?」とずいぶん驚かれましたね。東大から東海大学に異動する人など珍しいですし、一般的には定年後に公的病院の院長に就任するというのがよくあるパターンだったはずです。「退職間近で辞めるなんてもったいない。退職金にペナルティーを受けるでしょうに」などとも言われました。しかし、もともと私は病院長になる気はありませんでした(水面下で打診がきていましたが、お断りしていました)。病院長は私でないとできない仕事ではないですし、ほかに適任者は大勢いるからです。それよりも、帰国してからずっと気になっていた大学教育の改革をやりたいと思っていました。また、私自らが既定路線を外れる姿を学生や若い医師たちに見せて、人生にはさまざまな選択肢があることを、私の身をもって示したかったのです。

 場所や所属を何度も変え、多くの優れた方々に教育を施してもらった私は、自身も教育の場にいたいと強く思っていました。海外で教育を受けて帰国したとき、学生に対して親身になれる自分に気づいたのです。「教育の意味」というものは、いい教育を受けたことがない人にはわからないものかもしれません。いろいろな場面ですばらしいメンターに出会い、育ててもらった経験がないと、よい教育者にはなれません。そういった点で、教育の基本は「恩返し」なのでしょう。

 もちろん、心配がないわけではありませんでした。院長就任の打診を断った時点で、ほかに定年後の行き先があったわけではありません。ただ、リスクを目の前にして迷ったとき、可能性の有無は別として、自分がやりたいことがやれる選択に賭ける気概があるかどうかは、人生のターニングポイントで大きな影響力を発揮します。人間、強い気概があれば、チャンスというものは訪れるものです。このとき大事なのは、「これはどうしても譲れない」という自らのボトムラインを決めておくことです。そうでないと、見栄や外聞、いっときの利益に惑わされ、自らの人生を自ら選択できないつまらない人生を送るはめになります。私にとってそれが教育改革でした。

 そう考えて、私自身が人生を通して得た「経験則」に身を委ねたところ、東海大学から「うちの医学部長になってくれないか」という話がきたのです。当時、東海大学はほかの大学との差別化を図るために医学部教育の改革をしようとしていました。一方の私は、東大の医学部で、学生を海外の大学や病院に短期留学させたり、アメリカ流の講義方法を採用したり、ハーバード大学医学部が1987年に導入したNew Pathwayという学生たちの協同学修のカリキュラムを学生たちに実体験させたりと、さまざまな新しい教育を導入しつつ、あちこちで教育の重要性を説いてまわっていました。そこで私に白羽の矢が立ったのでしょう。

 東海大学では、学生たちに「外の世界」を知ってもらうため、アメリカ、イギリス、オーストラリアでのクラークシップ(学生が医療チームの一員として実際の診療に参加する臨床実習)の仕組みをつくり、若い医師たちをどんどん海外に送り出しました。医師たちには、「日々、気づいたこと/感じたことを、私にメールしなさい」と言ったところ、「英語が伝わらず、仕事も難しく、苦労しています。しかし、大変勉強になっています。先生やレジデントだけでなく、看護師さんや患者さんも含め、みんなに育てられていると感じます」「毎朝7時からプレゼンテーションがあり、準備に追われて1日2時間しか眠れません。ただ、先生たちは『恥ずかしがらずにどんどん質問しなさい』と励ましてくれます」「自分の成長を実感でき、人生の目標がクリアになりました」といった報告が毎日のように送られてきました。これらのメールに最優先で返事を書きながら、私は、短期間の留学であっても若者たちの意識が大きく変わり、彼ら彼女らの知的水準がグッと上がるのをはっきりと感じました。後に、これらの仕組みは他大学にも広がりました。

 

なぜ外から自分を見るべきなのか

 

 私が若者に海外に出ることをしきりに勧めていると、私自身の経験から「欧米に傾倒している」「アメリカを全面的に称賛している」という誤解をする方もいますが、それは大きな間違いです。海外に出て自分の国を外から見ると、自分の国の国民性や文化の良さ、強さ、弱さを相対的に感じ取れるようになります。日本のいいところに改めて気づく一方で、日本での常識がとんでもない非常識なものとして胸に迫ってくるかもしれません。同時に、世界に自分が存在する意味を見いだすことができるようになり、自分自身の良さ、強さ、弱さも感じ取れるようになります。そういうものなのです。また、私がアメリカを面白いと感じるのは、アメリカほど、異なる知識と技術、背景、価値観を持った人が集まる国はないからです。個々の知識と技術はともかく、アメリカに留学すると、日本では絶対に体験にできない「ちがい」というものを実体験できます。そこに価値を見いだしているのです。

 実際に外の世界に、できれば組織の庇護などない「個人」として行って、自分の目で見て、感じ、いろいろな人に出会う。生き残るために現場で必死に感覚を研ぎ澄ませる。海外で学んだ経験のある人はみな実感することですが、そうすることで、はじめて気づくことがたくさんあり、本当の知恵というものが身につきます。明治維新のころの日本には、そのように海外で学んだ後、偉業をなした人が大勢いたように思います。イギリスからたくさんの本を持って帰って自分で読み解き、いくつもの本を著し紹介した福沢諭吉。アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国で学んだ岩倉使節団。最年少の満6歳でその岩倉使節団に随行した津田梅子。長州ファイブ、薩摩セブン、山川健次郎。アメリカに渡り、後に日本人初のイェール大学教授となった朝河貫一etc. 一度外に出て知恵と自分の価値観を身に着けたとき、彼ら彼女らのように自分のやりたいことやキャリアを見つけられます。

 広い世界をいちど経験すると、それまで日本の中の狭い世界でお山の大将を気取っていたような人も、たいていの場合は自分を過信することがなくなり、謙虚になります。その謙虚さこそが、いっそうの自己研鑽につながり、やがて自分自身に対する大きな自信を生み出します。私が海外に送り出した若い医師たちに関していえば、アメリカのレジデントの生活は日本の研修医の厳しさの比ではありませんから、最初はみんなショックを受け、苦労をします。しかし、その経験をした人たちはみんな、日本の医療を自分なりに考えることができるようになっていきます。また、日本だけでなく、アジア、世界へと考えの視野が広がっていきますし、10年先の時間軸で医療について考えられるようになっていきました。中には、インドに行って実際の貧困を目の当たりにした途端、「これをなんとかするのが、自分の人生のミッションだ」と気づいた若者もいました。このような自分のロールモデルを見つけるチャンス、自分が夢中になれることに出会う機会が、一人でも多くの若者に開かれていてほしいものです。実体験に気付きや心のときめきを得られたとき、「これが私の一生の仕事だ」と思えます。すると、自分のモチベーションや目標が定まり、「多少のリスクがあってもどうにかやってやる!」という気概が持てるようになります。

 人も物も情報もフラットにつながるグローバルな時代。これからの若者は日本の中でどうこうしようとするよりも、思い切って海外に出てしまった方が圧倒的にチャンスは大きいことは確かです。やりたいこと、目指したいロールモデル(お手本となるような人)、メンター(指導者)は、人それぞれでしょうが、それを均一性の高い日本という国の1億2000万人の中から探すのと、全世界の78億7500万人の中から探すのとでは、得られる可能性がまったくちがってきます。

 なにも、私のように海外で何年もすごしながら、延々と激しい他流試合を続けなさいと言っているわけではありません。若者は数カ月であってもいいので、一度は外で他流試合を経験してみることで、自分の価値観を見つけなさいと言っているのですよ。若者に世界の広さを知ってもらい、自分自身や日本のいう国と比較する対象を持ってもらう機会をつくるのは、教育者の義務です。教育者は、「彼は私の教え子です」とつい誇りたくなるような学生を、広い世界に送り出す責任があります。私などは、世界で活躍する教え子がメディアで「私は黒川清先生に教育を受けました」と語ってくれているのを見ると、心の底から嬉しく思うのですがね。