近代日本の「70年サイクル」

4月11日、岡山で開催された「小児科学会」(会長:岡山大学名誉教授・大阪厚生年金病院長 清野佳紀教授)で、特別講演をさせてもらいました。 会場は満員で、大変な盛況ぶりでした。

最近いろいろな本を読みますが、副島隆彦氏の書かれたものは、物事の本質をはっきりと恐れずに書いてあり大変面白いと思います。日本の「エリート」は本当のことは何も言わず、“インナーサークル”で適当にやっていますからね。

『預金封鎖』や、つい先日は『やがてアメリカ発の大恐慌が襲いくる』という本を読みました。私もよく近代日本の「70年サイクル」説ということで話をしていますが、これは「コンドラチェフ・サイクル」と言われるものだそうで、近代資本主義の根本にある「過剰在庫」だとは面白いと思います。私は経済学者のことはよく知りませんが、有名な経済学者シュンペーターについての高い評価が理解できました。

ところで、副島さんの著書でもコメントされていますが、最近出版された『エコノミストは信用できるか』(東谷暁著、文春新書、2003年11月発行)は、エコノミストのコメントをデータ分析し、評価がされていて面白かったです。
また、フィクションですが、副島さんと同じような題材を扱っていて面白いのは、幸田真音さんの『日本国債』、『凛冽の宙』、『代行返上』などです。

さて、この「60~70年サイクル説」は、最近読み始めた中西輝政さんの『国民の分明史』にも出てきます。「分明史の仕切りの60年サイクル」。人間3世代など理由はいろいろあるのでしょうが、このような長さのサイクルで人間の知恵は動くのでしょう。1870年から1940年頃までの明治維新から近代日本にかける70年、世界は「植民地主義」を歩み、対して日本は「富国強兵」路線をとっていました。そして20世紀後半は世界が「冷戦」時代であり、日本は「高度経済成長」時代の、この60年ということなのです。それぞれ、はじめの30~40 年(「富国強兵」路線時代は今年100周年を迎える日露戦争まで、戦後は経済成長率がピークの70~80年代まで)は調子がよいのですが、その後、「成功体験」のために舵取りの変更や改革を起こせずに落ち目になる、というシナリオが常なのです。だから今は10年後の次の明治維新への移行期だと考えています。

その時代の日本の指針としての新しいキーワードは何でしょう?
世界では「人口問題、環境問題、南北問題」がキーワードになるでしょう。
では、日本は?皆さん、考えてみてください。

いよいよ日本の内科医も国際舞台へ

4月8日、日本内科学会総会の場をかりて、アメリカ内科学会(American College of Physicians:ACP)日本支部(Japan Chapter)の第1回総会を開催しました。この世界のリーダー格の学会は、アメリカの内科専門医(Board Certified Physicians)による学会で、常に医師の質と社会的責任について活発な活動を行っています。日本支部はアメリカ大陸以外では初めての支部で、去年設立されました。私は初代支部長に選出されています。今回は会長のWheby先生、また舞鶴市民病院時代に松村先生が招請していた「メジャーリーガー」の一人であるGibbons先生、そして前会長のAddington先生を迎え、大いに盛り上がりました。日本の会員はといいますと、日本内科学会の認定専門医はACPの会員になれるようにいたしましたので、現在約300名の会員がいます。今後はもっと会員を増やしていきたいと思います。

会員の方には、ACPの発行する学会誌「Annals of Internal Medicine」や「ACP Journal Club」が送られてきます。このような学会誌が、日常の診療や医学教育に使われることが常識となる、診療の世界を構築したいと思っています。その他にも、この学会にはいくつものプログラムがありますので、どのようにこれらを使っていくかを考えていきます。

今年の春は、松井選手を含むヤンキースを迎え、メジャーリーグの開幕戦が東京で開催されました。野茂選手が渡米して10年目のことです。このACP日本支部も、10年後には日本の内科医がメジャーのようになってほしいという願いを込めたひとつの始まりであり、そのための核となる事を期待したいと思います。

国際化時代で、日本での「プロ」育成へ向けた第1歩だと考えようと、総会の席で挨拶をしました。ぜひ参加してください。応援お願いします。

日本学術会議改正法案

新しい年度が始まり、皆さんも気持ちを新たにというところでしょう。

今日は、日本学術会議改正法案について参議院の文教科学委員会に参考人として出席しました。先日の衆議院は初めての経験で緊張しましたが、今回は少し落ち着いていることができました。最近の国際的な枠組みの中で学術会議の活動も納得をいただけたようで、全委員の賛成で無事に承認を得られました。明日の参議院本会議で可決される予定です。

現在衆議院は年金問題で揺れていますが、衆議院では既に可決されていますので助かりました。それにしても、議員の方々は忙しいですね。多くの若い議員の皆さんに期待しています。

最近はこれらの審議もインターネットライブで見られるようです。すごい時代の変化ですよね。情報化時代のパワーを感じます。

“破格、破天荒のスーパー日本人” 蜂須賀侯爵

3月15日に書いたジェンダー問題に関するブログで津田梅子さんを紹介しましたが、またわくわくさせてくれる人物を紹介します。

昨日のお昼、少しぐずぐずとした天気でしたが、オーストラリア大使館で桜を楽しむパーティーに行きました。ここは、もともと蜂須賀家のお屋敷の一部だったそうです。あの豊臣秀吉で有名な蜂須賀小六の18代目、正氏(まさうじ)(1903~1953)が育ったところです。本家は阿波徳島。明治維新後、祖父は貴族院議長、東京都府知事、父上も貴族院副議長を勤めるほどの超名門家です。

正氏氏は幼い頃より広い庭の生き物、アリ、カエル、鳥が大好きで、好奇心と冒険心にあふれていました。17歳でCambridge大学へ留学し、イギリスに7年間滞在します。そのときに興味を持ったのが、絶滅鳥“Dodo”です。16世紀に渡来した「文明人」、ポルトガル人・オランダ人が食用としており、18世紀には絶滅してしまったアフリカ東海岸のマスカリン島の幻の鳥です。

ネイティブと間違うほどのキングズイングリッシュを使い、アフリカを遠征し、コンゴで野生のゴリラを見た初めての日本人。帰国して多くの学者の英語論文を添削し、当時の東京を、単発の真っ赤な軽飛行機を自分で操縦して飛び回る。勿論、警察に睨まれたりもする、スポーツ万能な人物です。世界に2番目の生物地理学会を日本に設立しますが、日本ではなかなか受け入れられるはずもなく、半分勘当のような扱いを受けて、またアメリカ、そしてイギリスへと向かいます。彼の冒険心は止まる事を知らず、ミンダナオ島に尻尾のある人間(有尾人)がいると聞くと、また遠征し、この島で一番高い2,900メートルのアポ山頂上へ登ります(1929年)。マラリアや訳のわからない感染症への危険も何するものぞ。本当に病気になっても、自分で探検隊を率いて出かける。

なんという冒険心、駆り立てる情熱。破天荒。これがまさに今の日本にかけているのです。今、どこにこんな人がいるでしょうか。何不自由ない身分でありながらリスクをとり、結局、侯爵を剥奪される。世界を駆け巡り、世界中に沢山の友人を作る。UCLAでPh.D.を取得し、戦時中の困難を乗り越えてイギリスで“Dodo”の本を出版。しかし、本が日本に到着する直前に急逝。なんという人生。本当にすばらしいと思います。英語や日本語で多くの学術単行本を出版し、多くの学術成果を残しています。“Hachisuka line”として知られる生物地理区分線や、世界では “Marquis de Hachisuka”としてよく知られている存在で、世界的に著名な方です。

山階鳥類研究所には蜂須賀氏寄贈の、多くの鳥の標本があるそうです。去年、蜂須賀正氏生誕100周年のシンポジウムに出席して挨拶をしましたが、その席で正氏氏の一人娘(といっても私の同年代ですが)の、正子さんにお会いしました。私が「お父さんのワイルドな遺伝子を次の世代へと伝えましたか?」と聞いたところ、「私も父に似てずいぶんワイルドで、結局アメリカにいました。子供はいません」と正子さん。残念です。

蜂須賀正氏曰く、“Take off the narrow-mindedness!!”と。今まさに日本人に必要なのはこれではないでしょうか。

参考:
  日本生物地理学会ホームページ
 ・荒俣宏 著。 『絶滅鳥を愛した探険家』。大東亜科学綺譚。ちくま文庫。1996年。
 ・産経新聞「日本人の足跡を求めて」取材班 編著。
  『日本人の足跡〈3〉世紀を超えた「絆」求めて』産経新聞ニュースサービス。扶桑社。2002年。

日本医師会の選挙について

以前から書いていますが、今のそしてこれからの日本の医療制度はかなり危機的状況だと思います。

研修制度の必須化の影響で、(今までみんな知っていたけど誰も何もしなかった)医局による医師の出向人事や地方の医師不足問題、それに対する医局への金銭のやり取りなどが毎日のように新聞をにぎわせています。これらは、研修制度の必修化という制度変更の下で、全てが表にでるようになったということです。

これは大変なチャンスなのです。もっとしっかりとした将来への医療制度を提言、構築し、毎年、何のために、そしてどんな政策を導入するのか、国民的議論にするべき時なのです。その場、その場の手当てでは決して解決に結びつかないのです。今が国民のより広い理解と支援を得るよい機会です。

ところが、この大事なときにその中心的な役割を果たすべき日本医師会は4月1日に会長選挙が行なわれます。4人の候補者が立候補し、誰がなってもそれぞれ立派な方たちですが、長期的な政策の立案と普及させる戦略等を考えられるしっかりとしたリーダーが出てこないと医療は後退してしまいます。医師免許の更新、勤務医が参加しやすい会費とプログラム、活動、医師の質向上への社会に理解される広報戦略等々です。もし日本の医療が後退してしまうと、回復するには10~20年かかるかもしれません。

医師会も「全国区」という考えで全員が一致団結するべきです。執行部も「全国区」にしなければ、益々弱体化し、日本の医療はかなり荒廃すると思います。

せっかくのチャンスだというのに、こんな事ではかなり心配です。

日本学術会議改革法案が衆議院を通過

先週の20日と今週の23日の2度にわたり、日本学術会議改革法案についての衆議院文教科学委員会が開催され、私も「参考人」として呼ばれました。

与党、野党委員ともに学術会議の改革には理解を示していました。学術会議のこの5年の国際的活動や、先日2月5日の国連で私たちの報告書が、Kofi Annan事務局長の招待で発表されたことなどを引き合いに出しながら、これからの科学者コミュニティーと21世紀の世界的課題等について答弁しました。結局(珍しい事だそうですが)、全員一致で承認という事になり、23日午後の衆議院本会議で満場一致で承認されました。来週にも参議院での審議になるでしょう。よい経験をしました。

ところで、日本学術会議は何を、という質問はよくありますが、このサイトを見てくださる方たちは「学術の動向」などの誌面からも少しずつご理解していただけていると思います。これからの国際的課題について等、科学者たちの社会的責任が問われているのです。このような活動の一例が、私のコメントも含めて「Science」(3月12日号)にも報告されています。また、20日の衆議院の委員会には「Nature」のDavid Cyranoskiさんも傍聴に来てくれました。近く記事が出るのでは、と期待しています。「Nature」では「日本の科学特集」を企画していて、こちらも近く出版されることと思います。

今日は東海大学医学部の卒業式。夜は謝恩会があリました。このクラスの学士入学の人たちとは「医学生のお勉強」を作った私の仲間であり、なんとしても出席しなくてはと思っていたのですが、昼間は内閣府の会議、夜は年度末ということで小泉首相と総合科学技術会議議員(私もそうなのですが)と総理官邸で夕食という事になり、この大事なお別れに出席できませんでした。メッセージは代読してもらいましたが、出席できずとても残念でした。

今年医学部を卒業される皆さん、研修先も決まり、国家試験も終わり、しばし来た道を振り返りつつ、これからの研修と医師としての生活への期待(と少しの不安)にゆっくりと思いをはせてください。そして、しばし、桜と春を楽しんでください。

ジェンダー問題についての医学会に参加

今日は「性差医学」の第1回目の集会に一部出席しました。千葉県の堂本知事と千葉県衛生研究所長の天野恵子先生の主催で、Columbia大学のマリアンヌ・レガート教授(Partnership for Gender-Specific MedicineのFounder and Director) が、大変すばらしい話をされたと聞きました。私は午前は所要があって出られませんでしたが、最後に挨拶をさせていただき、これら「性差医学」には社会的歴史があって、18世紀の中ごろ「哺乳類」に何故“mammalia”と女性の特徴の乳房を使った背景にも触れました。不思議でしょう?ほかの種ではこんな性に関するあからさまな言葉は使っていません。何故、と考えるのがいつも楽しいのです。当時の西洋の科学は博物学による分類が盛んで、“mammalis”はリンネの命名です。

さらに1901年から始まったノーベル賞最初の女性受賞者がキュリー夫人(1903)、2度目の女性受賞者もキュリー婦人(1911)、3人目はキュリー婦人の娘であるという事を話しました。こんな男性優位の時代にこんなすごい女性がいたのです。

ノーベル賞を2度受賞した人は何人いるでしょうか?答えは4人です。キュリー婦人を除けば勿論男性です。1人はボーリングですが、彼が受賞した賞の一つは平和賞でしたから、ちょっと違うかとも思います。もう1人はバーディーン(1956)、半導体およびトランジスタ効果の発見と1972年に超電導現象の理論的解明です。そしてサンガーが1958年にたんぱく質、インスリンの構造に関する研究で化学賞、1980年に核酸の塩基配列の解明で化学賞を受賞しています。

キュリー婦人は親子(母娘)での受賞ですが、これも他に一組、父息子での受賞があるのみです。いかにキュリー婦人がすばらしいか理解できると思います。

ところで、日本にはそのような人はいるでしょうか?考えてみると津田梅子さんがそうだろうと思います。明治4年、7歳の津田梅子は他の4人の女性とともに明治政府の使節団の一員としてアメリカへ渡り、11 年間アメリカのランマン婦人宅で娘同様に育てられ、18歳で帰国。大きな困難を越えて女子教育に大きな貢献をしました。7年後の明治22年に再度渡米、Philadelphia郊外の女子大学Brym Mawrへ留学(私も行ったことがありますがすばらしいキャンパスです)、女子大学でも理科教育を重視していて、生物に興味を持った津田梅子は当時のMorgan教授(このMorgan教授は1933年に染色体の研究でノーベル賞を受賞しています)とかえるの卵を使った研究の論文を発表します。彼女の才能は高く評価されていましたが、日本に帰国。帰国後、津田塾女子大学を設立し女子教育に一生をささげました。ただただすばらしい人です。感動します。

この頃は「熱く」、志の高い人が何人もいました。今は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

臨床研修に関する記事

讀賣新聞に臨床研修に関する記事が掲載されましたので紹介します。

讀賣新聞 2004年2月10日

「臨床研修」今春から様変わり 医療現場も変わる!?

国家試験に合格した医師が受ける2年間の「臨床研修」が、この春から大きく変わる。より多くの診療科を経験して、基本的な診療能力を身につけるようにするなど、日本の医療全体の改革につながる内容だ。新制度を先取りしている病院を訪ね、臨床研修のあるべき姿を考えるとともに、従来の研修で中心的役割を担ってきた大学病院の対応を探った。(針原陽子)

◆佐久総合 8診療科以上を経験

 ■別の病気

先輩医師らのアドバイスを受ける研修医の柴田さん(写真中央)。佐久総合病院では、総合外来で数多くの症例を経験、基本的診療力が身に着くようにしている(長野県臼田町で) 昨年暮れ、長野県臼田町・佐久総合病院の総合外来診察室。研修医2年目の柴田詩子さん(27)が、「あれっ?」と声を上げた。

高熱と悪寒の症状を訴えて外来に来た男性の胸部レントゲンを撮ったところ、白い影が映っており、典型的な肺炎に見えた。だが、念のために確認した数か月前のレントゲン写真にも、同じような影が映っており、これは病巣ではない可能性が強い。

柴田さんはその場にいた先輩医師に相談したうえで、「肺炎ではなく、別の病気で入院が必要」と判断、確定診断のため検査項目を追加した。「一般的な病気と思われても、実は違うということは、よくあります」と柴田さん。それを見逃さないためには、多くの患者に接して経験を積むことが必要なのだという。

 ■過去最高

佐久総合病院の臨床研修の特長の一つは、複合的な疾患を扱う「総合診療科」が、研修医の窓口となっていることだ。研修医は、内科、外科、小児科、精神科、麻酔科など8診療科以上を数週間から3か月程度ずつ回りながら、週1日は総合外来で診察する。患者の状態を的確に判断できるように、様々な病気をみるためだ。

1年目の研修医が診察する場合は、必ず先輩医師に患者の症状と自らの診断を報告し、確認を求める。研修医の診察だけで患者を帰すようなことは許されない。「サポート体制ができているので安心できる」と、柴田さんは言う。研修医への給与も、アルバイトの必要がない程度には支払われている。

診療所の医師を目指す研修医も多いだけに、地域医療の研修プログラムも充実している。最低1か月は、本院から約10キロ離れた山村にある「小海分院」を拠点に、往診や地域内診療所での診療を経験する。分院での研修体験者を対象としたアンケートでは、「第一線の地域医療の役割が理解できた」「在宅や福祉の現場で住民を見ることができた」などの意見が多く、90%以上が研修を「有意義だった」と回答した。

同病院の西沢延宏・研修医教育委員長は、「新制度で導入される『スーパーローテート方式』は、うちでは20年以上前から採用している。ほとんど変える必要がない」。こうした点が評価され、春からの研修医を決める試験には、15人の定員に対し、過去最高の84人が受験した。

◆聖路加国際 多くの症例3年で勉強

 ■屋根瓦方式

聖路加国際病院(東京・中央区)は、「厳しいが、質の高い研修が受けられる」と、医学生たちの間で人気が高い。給与も一定額が保証されている。

特に内科は、腎センターや緩和ケア病棟なども回り、3年間かけて行う。病棟は、呼吸器や循環器、消化器など様々な疾患の人がいる「混合病棟」。1棟35床を、研修3年目の「病棟長」と、2年目の研修医が1人、1年目が2、3人で担当する。治療方針は主治医が決めるが、研修医にも相当の裁量権がある。1年目の研修医を2年目が、1、2年目を3年目が教える「屋根瓦方式」の指導体制もあり、2年目としては異例の病棟長を勤めた和田匡史さん(28)は、「後輩を教えることによって、自分も勉強になり、責任感も強くなる」と話す。

 ■連日議論

自分の担当した症例などを報告、診療の方針について議論する「カンファレンス」が毎日のように開かれるほか、末期がん患者などが対象の「ターミナルケア・カンファレンス」には、診療科や職種に関係なく参加できる。研修医の発表に対し、医師だけでなく看護師やソーシャルワーカーも質問や意見を出す。

「とにかく、担当する症例は多いし、勉強する場は山ほどある。それをこなしていければ、力はつく」。内科系研修医をとりまとめる内科チーフレジデントの小野宏さんは話す。

全国の臨床研修指定病院の研修を取材し、医学生らに情報を提供しているメディカル・プリンシプル社の市村公一医師は、「佐久総合病院は地域医療志向、聖路加は徹底した基礎作りというように、研修の特長は病院ごとに違う。自分がどういう医師を目指すのかを考えて、研修先を選ぶべきだ」と指摘する。

◆学生に大学病院離れ “雑用係”扱い見直し 育成重視の動き

新制度で、研修プログラムの規定が設けられたことは、これまで研修の中心だった大学病院に大きな変化をもたらした。新たに導入された、研修医と病院側の希望をすり合わせる「マッチング」という仕組みも、流れを後押しした。

「どういうことだ」。マッチングの結果が明らかになった昨年11月、年百数十人という国内最多の研修医が集まる慶応義塾大学病院に、衝撃が走った。新制度での研修医募集定員100人に対し、マッチングで決まったのは66人にすぎなかったからだ。

慶応大卒後臨床研修センター副センター長の吉川勉助教授は、「報酬が決まらなかったことや、研修期間のうち1年を過ごす関連病院がどこになるのかわからなかったことが、原因かもしれない」と分析する。しかし、別の病院を選んだ慶応大医学部6年生は、「診療科ごとに数か月という短い期間で、将来に役立つ内容を効率的に学ばせるノウハウは、今の大学病院にはない。学生がスーパーローテート研修の体制のしっかりしている所に行こうと考えるのは当然」と言う。

こうした事態に、同病院は、研修医が行っていた病棟患者の朝の採血や、分かりづらい検査室への患者の案内などを、臨床検査技師や看護師、事務職員などに肩代わりさせる方針を決めた。吉川助教授は、「このような仕事は本来、研修医にさせるべきものではなかった。今まで研修医を“雑用係”扱いしていた面もある。今後は研修医を育てるという姿勢を、より重視していきたい」と話す。

マッチングは、従来の卒業生ばかりが集まる大学病院の医局を中心にした研修では、研修医同士の競争や研修内容への批判がなく、質の向上につながりにくいという反省から導入された。その結果、他大学からの流入が少ない地方の国公立大学病院でもマッチング率の低さは目立ち、定員の半数に満たないケースが相次いだ。こうした研修医の大学病院離れを、「健全な選択。研修の質を上げないと、学生の流出は止まらないだろう」と解説する関係者もいる。

臨床研修制度に詳しい船橋市立医療センターの箕輪良行救命救急センター部長は、「大学病院は、医師の養成に重要な役割を果たしており、研修医をきちんと指導できる体制を整えられるかどうかは、改革全体の成否にかかわる問題だ。研修が充実すれば医療の質も上がるので、臨床研修改革は大学病院改革でもある」と指摘している。

【要語事典】臨床研修の改革
医師の国家試験に合格してから2年間、医療現場で診療を学ぶのが「臨床研修制度」で、今春から36年ぶりに改革される。
従来は努力義務だったうえ、研修プログラムの規定もなかった。特に、研修医の約8割が集中する大学付属病院では、専門分野に限って研修を行う場合が多く、幅広い基礎的な診療ができない医師を育ててしまうという問題があった。
新制度では研修が必修となるほか、内科、外科、救急部門、小児科、産婦人科、精神科、地域保健・医療の7分野を回る「スーパーローテート方式」を導入。「経験すべき診察法、検査、症状」などが、経験目標として示された。研修先は、病院側と研修医がそれぞれ希望を出して、一致した場合に決定とする「マッチング」で決める。処遇についても、アルバイトが必要なくなるように、公費負担も含めて月収30万円を目指すことになった。

この記事・写真等は、読売新聞社の許諾を得て転載しています。
著作権の説明 http://www.yomiuri.co.jp/copyright/index.htm

NRCと学術会議

2月12日、今日は忙しい一日でした。

朝からアメリカの国務省と、新しく設立された国土安全省、そして日本政府間の「安全と安心」についての科学技術政策と協力関係の構築についての第1回となる政府間会議がありました。先方は国務省の科学技術主任のDr. AtkinsonとHarvard名誉教授のDr. Branscombが中心でした。昨年12月にWashingtonDCのCarnegie研究所、そしてNational Academy of Sciencesに訪問したことを書きましたが、このときにDr. Branscombの名前を聞き、お会いしたいと思っていたところ、日本でこの会議に参加するという事だったので楽しみにしていました。Dr. Branscombは「9.11」のあと緊急に構築されたNational Research Council報告の「Making the Nation Safer」の委員長で、それで会いたいと思ったのです。このNational Research Council(NRC)は1916年にNational Academy of Sciences(NAS)(1863年、Lincoln大統領のもとで設立され、政府間に緊張ある、しかも「中立な政策立案のシンクタンク」のような機能を果たしています)が設立した機関で、以後、傘下に工学と医学関係のアカデミーを擁するようになり、現在に至っています。

「学術の動向」の2004年1月号にも、学術会議の歴史等を踏まえ、NRCについて触れていますので、是非読んでください。実は学術会議はNRCを意識して作られたのです。当時の日本はそこまで成熟していなかったこともあり、NRCのような機能を果たせず現在にいたっています。これからの学術会議は、このNRCのような機能を社会に負うべきだと言うのが私の考えです。

ちなみに懸案であった学術会議改革法案が10日に閣議決定され、ほっとしました。事務局と一杯だけお祝いをしました。

昼は外国人記者クラブに招かれて「日本の問題」について話しました。面白かったですね。よく講演をしているのですが、今回はちょっと趣向を変えて「自殺が増えた背景-この4年間、30%増えた分はすべて40~60代の男である話」、「過労死の話」、「天下り」、そして「日本語は「私」と「あなた」をあらわす言葉がいくつもある唯一の言語である事」を提示し、その理由を、歴史的、社会的な実例を挙げながら30分間話をしました。

今日は日米協議の2日目ですが、一部だけ出席することにしています。今日はその他に「医療制度と情報」の講演予定が入っているので。ではまた。

原子力安全に関するシンポジウム・「ヒト胚の取り扱いに関する基本的考え方」に関するシンポジウム

2月7日、原子力安全に関する公開シンポジウムに出席し、基調講演をしました。

1905年のEinsteinから量子力学は進歩し、40年後には原子爆弾が日本に落とされ、そして今は日本の電力の30%が原子力なのです。では「安全」はという事ですが、将来へのエネルギーのあり方、「安心」とは何か、信頼とは何か。日本の歴史を振り返りながら社会の政策形成へのプロセス等について話しました。

日本での原子力の安全は勿論大事な問題です。しかし、では、近所の中国・朝鮮半島でも同じような基準で原子力発電の安全性を要求できるか、そのときの日本社会での「安心」はどうか、等の問題点も指摘しました。つまり、日本国内だけでの問題ではない、という問題も提起をしたのです。アジア、世界での経済大国の日本の課題は何か、というようなことを含めた問いかけをしました。

8日には内閣府の生命倫理専門委員会の中間報告、「ヒト胚の取り扱いに関する基本的考え方」に関する公開シンポジウムに参加しました。きわめて重く、大切な問題です。意見がかなり大きく分かれていて、明確な結論を出す事はもちろん難しいと思います。このテーマは2002年に出版された「医学生のお勉強」でも取り上げている議論です。

政策決定のプロセスが、徐々に開かれた対話を通じて進められていくことに明るい兆しを見ています。