ナイロビへ、TICAD6に参加 ‐3;GHITファンドのカンファレンス、そしてアニャンゴさん

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ヒルトンでのノグチ・アフリカ賞のカンファレンスの終了とともに、以前からの約束で、違うホテルで開催されるアフリカの”NCD”(Non Communicable Disease)のカンファレンスの基調講演に向かいました。講演終了後のパネルの途中で退席(参加者は医師が多かったのですが、後からメールがあり、予想しないような話でとてもよかったと、感想をいただきました。)、再びヒルトンに戻って、午後に予定されているGHITのカンファに出席しました。

登壇者には午前のノグチ・アフリカ賞のグリーンウッド博士、コルチイーオ博士も参加して、盛り上がりました。私は遅れて到着したので、皆さんのパネルが終わってから最後の挨拶を済ませ、プ-ルサイドで準備していたGHITファンドのレセプションに皆さんと移動しました。

このプ-ルサイドのレセプションには、若い日本の女性アーティストのアニャンゴさんにお越しいただきました。彼女はアフリカの音楽に魅せられて一人でケニアへ渡り、修行を積んで、女性には許されていなかった”楽器”の演奏の免許皆伝をもらったという、とても素晴らしい頑張り屋さんです。

彼女は、この音楽で世界を回り、DVDも出しています。今度の件で東京の事務所に連絡をしたところ、8月の終わりはケニアに行っている予定と聞いたので、早速お願いをしてこのようなことになったのです。

アニャンゴさんと現地のバンド演奏で、みなさん歌を一緒に歌いはじめ、踊りはじめるという素敵なイベントになりました。

ところで、最近のテレビでも彼女の素敵な取材が放送されました

夜は、今回のノグチ・アフリカ賞のイベントでお世話になった内閣府の方たちと、ちょっとした慰労をかねたの夕食会。ホテルのレストランで一時を過ごしました。

レストランでは日本から参加されていたいろいろな方にお会いしました。26日は朝からとても充実したナイロビの一日でした。

ナイロビへ、TICAD6に参加 ‐2

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8月26日の午前には、ナイロビのヒルトン・ホテルで、私が委員長を務めているHideyo Noguchi Africa Prizeカンファレンスを開催しました。

これには第1回(2003年)と第2回(2008年)の受賞者4名のうち、3名の方が参加してくれました。現地の準備は第1回の受賞者の一人で、ここナイロビで活動しているウェレ(Miriam Were)博士にお願いし、WHO‐AFROの協力を得て開催しました。特にノグチ・アフリカ賞の性格から、アフリカで公衆衛生の分野で活躍している若い人たちをお招きするようにお願いしました。

このノグチ・アフリカ賞の特徴としてアフリカの保健・公衆衛生分野での活躍、貢献があり、受賞者にはケニアのウェレ(Were)博士、ウガンダのコルチイーオ(Coutinho)博士がいらっしゃいます。このお二人は、この分野で活動しているアフリカの若い人たちにとっては、憧れでもあり、また目標となる素晴らしいロールモデルであると考えたからです。もう一人の受賞者Peter Piot博士が参加できなかったことは、以下の私の挨拶にでてきます。

会場は100人ほどで、満員、立ち見の方も多く、熱気にあふれています。私の挨拶、ケニアの保健大臣(代理)、塩崎厚生労働大臣の挨拶、WHO-AFRO代表(代理)の挨拶のあと、今回作成したノグチ・アフリカ賞のビデオ(約6分間のビデオ。英語版で、フランス語の同時通訳付き、日本語の字幕版でした)を上映しました。その後に、ウェレ博士の基調講演、ウェレ博士が主宰するUZIMA財団関係の若者たちのカラテ演武と続きました。

短いブレークのあと、2つのパネル。司会は受賞者のグリーンウッド博士とコルチイーオ博士ですが、お二人の人柄ですね、とても「熱い議論」が続きました。

朝8時半から1時間にわたって、このお二方と議論をした20人ほどのアフリカの若手の方たち、その代表の二人が、この2つのパネルの議論を最後にまとめて、パネルを終わりました。これはとても素晴らしいものでした。みなさんとても優秀です。

終わりには、日本・アフリカ議員連盟会長の逢沢一郎議員にもご挨拶いただきました。

受賞者たちのいつまでも全く変わらない、たぎるような情熱が、特に素晴らしかったですね。これが一番大事なのだな、改めて感じました。

この後は、次の「ナイロビ、TICAD6に参加 -3」に続きます。

ナイロビへ、TICAD6に参加 ‐1

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東大での認知症の会議から帰宅して一休み。8月23日の夜中過ぎに羽田を出発、ドバイ経由で、ナイロビへ向かいました。

今回は、初めてアフリカで開催されることになった第6回のTICAD123)(8月27日、28日)に関連して26日に開催される3つのイベントに出席するためです。

羽田では真夜中なのに大勢の日本の方が、エミレーツ航空のカウンターに並んでいました。皆さん、そのほとんどがTICAD関係の方たちでしょう。こんなに長い列をエミレーツのドバイ行きで見たのは初めてです。受付でも「なぜなのでしょうね」と言っていました。別に秘密でも何でもないので、ちょっと説明をしました。

しかし、物事はわからないものですね。ひょんなことから、「羽田–ドバイ–ナイロビ」とファーストクラスになりました。本当にラッキーなことです。

羽田、ドバイ空港でも何人かの方にお会いしました、みなさんナイロビ行きです。

予定どおりにナイロビに到着。ホテルはヒルトンです。

良い天気、軽井沢のような気候(標高1,800m程度なので)、人も多いし、でも十分に注意ということです。

25日は、現場の視察。26日に私が参加する「Hideyo Noguchi Africa Prize」担当の内閣府の人たちと、またGHIT Fund 関係者などと最後のチェックをしました。

夕方から40年も現地で活躍しておられる佐藤芳之さん12)のご自宅へお招きを受けて訪問。行ってみると何人かのお客さんがおられると思っていたのですが、私だけということでした。

5,000坪ほどの緑豊かな土地に、二階建て300坪ほどのご自宅ということでした。奥様の手料理ですが、これがほとんど自家製のものばかり。ワインも、陶器のお皿も、花も。肉はさすがにお買いになったそうですが、別に500頭ほど飼っておられて、これは市場へ、ということでした。

この広々としたところで生活していると、気持ちも、自宅も、自然に小さいのは息苦しいのでしょうね。わかるような気がします。

東大で認知症の会議、夜はナイロビへ向かう

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8月23日、午後から東大の伊藤記念講堂へ。早期認知症の画像診断と4年間ほどにわたって追跡する米国の「A4」臨床研究に、日本も参加するという、東大医学部の岩坪教授による「お披露目」の会です。

私は始まりの基調講演の担当で、私が世界認知症会議(World Dementia Council)(1)のメンバーであることからです。伊藤謝恩ホールは200人を超える参加者で、多くの関係される方たちの興味を引いているようでした。

私は、WDCの由来と経過について説明し、EUのEPADや米国のGAPのような「政産官」の、しかも世界に広がるマインドで行動するような「プラットフォーム」を日本でも形成することの大事さを、強く主張しました。こんなことが実現するとうれしいのですが、どうなるでしょう。

このようなプラットフォームは大事で、しかも喫緊に必要なことなのですが、日本では大きなチャレンジでもあり、楽しみでもあります。

後日、これに参加していた英国大使館の方から、英国が2013年のG8サミットで始めたこのWDC世界認知症審議会をわかりやすく紹介してくれたと言って、お礼のメールをいただきました。

トロント・スター、日本の認知症対策の取材

ちょうど一年前のことですが、トロント・スターのジェニファー・ヤンさんによる認知症の取材がありました。

その後も、ヤンさんとはトロントで何かの機会に再度お会いしたのですが、「あの取材の記事はどうなった?」と聞いたのですが、「まだなんです。」という答えでした。

最近、その記事に気が付いたのでご紹介します。二部構成です。日本と認知症について広範にわたって取材されていることがわかります。

一つは、“Japan: Dementia lessons from the world’s oldest country. Dementia rising globally but the first waves crashed over Japan, How is the world’s first super-aged country coping?” 。

もいう一つは、“How Japan is training an entire country to help with dementia: Japan can’t change dementia. So Japan is changing Japan”

朝日新聞の山本さん、患者さん団体の高見さん、長寿センターの鳥羽さんとか、いろんな方が取材を受けています。

両方とも英語ですが、ちょっと我慢して読んでいただければと思います。写真もいろいろですが、なかなかしゃれたタイトルです。

この一週間後に、トロント・スターではカナダの対応についての論説記事(Editorial)を出しています。

トロントへ再び

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今年になって、トロントはすでに3回目です。今回は2013年の英国G8サミットで合意されたWorld Dementia Councilを継承した新たなに組織の会合です。

このWDCの前の数日にわたって、世界認知症学会がトロントで開催されていたので、この日程になったのです。

到着後ホテルにチェックインしてから、ご当地のToronto Blue JaysとSan Diego PadresのMLBゲームがあるので観戦に行きました。ほぼ満員の球場で、外野のかなり上の、急峻な場所の席しかありませんでした。私は7回の表で球場を後にしましたが、翌日の新聞を見ると、なんと12回までの延長戦、しかも12回表の2点差を”劇的な経過”で3点を取って勝ったサヨナラゲーム。みなさん大興奮だったと想像できます。

このゲーム経過などについては以下の記事とビデオをご覧ください。

さて、新しいWDCの会合ですが、いくつかのアジェンダについての小委員会の提案発表、それらのまとめ、そして次へのプロセスなど1)について議論しました。

今までは「英国政府の委員会」という立場でした。しかし今回からは独立している立場になったのですが、それをどのように広く関係各所に認識してもらうのか、という戦略的視点が不足しているように思いました。その点についてはいくつかコメントしました。これは考える以上に大変な課題であり、これからの活動に大事な基本的認識と思います。

高齢化社会先進国の日本はどのようにこの世界的課題である「認知症」に対応していくのでしょうか。5月の伊勢志摩でのG7サミット宣言の「2. 2. 5」で「認知症」も取り上げられています。9月の神戸でのG7厚生大臣サミットでも、この確認が必要です。何しろ認知症は「確実に予測される津波」なのですから。

Gairdner財団のJohn DirksGrand Challenge Canadaを率いるPeter Singer他の方たちにもお会いし、また中山総領事とは公邸で歓談の時間をいただきました。

特に今回は、2009年から始まったGairdner賞に創設されたGlobal Health賞(ノーベル賞の大村先生も2014年に受賞しています)に、今年で引退するDirks氏の名前が付けられることになった、個人的なお祝いの意味もあったのです。→English

お知らせ

書籍「規制の虜」が「TOPPOINT」という新刊書を紹介する雑誌に取り上げていただいたことは以前にご紹介しましたが、『2016年上半期 読者が選ぶベストブック』のベストテンにランクインしました。

この10冊のうち、翻訳本が6冊、複数の著者からなる書籍が1冊で、単著は3冊です。その1冊として『規制の虜』が選ばれました。

『2016年上半期 読者が選ぶベストブック』(『TOPPOINT』2016年8月号 pp43-44)

 
関連記事:
https://kiyoshikurokawa.com/jp/2016/07/%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B-28.html

 

お知らせ

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9月9日(金)、東京国際フォーラムにて開催される自然エネルギー財団設立5周年記念シンポジウム「世界中の電力網に自然エネルギーをつなぐ-「脱炭素の時代」へ急転換する世界のビジネス-」で、講演とディスカッションに参加します。

詳細はこちらをご覧ください。
http://www.renewable-ei.org/activities/events_20160909.php

スケジュール → https://kiyoshikurokawa.com/schedule/2016/07/508.html

 

福島高校へ出かける

20160704_fukushima high↑ こちらをクリック ↑

今年の3月10日に福島原発事故から5年のタイミングで出版した「規制の虜」1)を読んでくれた方たちに誘われて、福島県立高校へ行って来ました。

福島高校は県立安積(あさか)高校とともに福島県ではトップの進学校です。ちなみに安積高校は、福島原発事故の国会による事故調査委員会の報告書の「はじめに」に引用した「日本の禍機」を著した、朝河貫一先生の出身校。朝河博士は日本人で初めて欧米の主要大学の一つ、イエール大学の教授となった人物です。

全校生徒960人ほど、先生、父兄、また近くの方たちも参加して、室内体育館で私の話と質疑で約2時間、みなさん熱心に聞き、活発に質疑をしてくれました。

そのあと、10人ほどの学生たちと私が車座で、他の皆さんもその周りを囲んで討論。初めの発言は一年生、「黒川先生の意見ですが、私は違っていると思います」と。私が「いいねぇ、それはどこ?」で始まりました。本当にいいですね、このようなやり取り。

この後、さらに希望者たち30人ほどと、更に90分近く討論する時間を持ちました。

この午後の半日はとても楽しい時間でした。みなさんもハッピーそう、先生たちも。

ところで、今回の訪問では福島原発の事故当時、相馬高校で教鞭を取っていて、2年後の2013年に相馬高校から東大に入学した「いなむらたける」君の先生だった松村先生にもお会いできました。

この年、震災で大きな打撃を受けた、岩手、宮城、福島の三県から東大に入学した生徒は、三県とも「進学校」といわれる各県の二つの高校からだけでした。「いなむら」君だけがただ一人の例外でした。

この2013年の東大の入学式では、私が祝辞を述べる栄誉を受けました。そのお祝いの式辞のはじめの部分で私は、「いなむら」君と松村先生のことに触れたのです1)。

特に「いなむら」君とご両親は(そして松村先生は多分、後でこのことを聞いて)驚いたことでしょう。まだ会ったこともない私が、祝辞のはじめに突然に自分の名前を呼んだのですから。これは本当に「想定外」のことでしょうね。松村先生には事前にお電話をさせて頂いて、ちょっと「あること」だけを確認させていただきましたが...。

そんな思い出を持っていたものですから、松村先生に初めてお会いできたのは本当にうれしいことでした。

さらに日本のトップの進学校のひとつである灘高校で教鞭を取っていた前川先生。この方も東北大震災の後に灘高校をお辞めになり、福島で教育活動をしていることを知っていました。ですから、前川先生にもお会いできたのはとてもうれしかったのです。

この福島高校での一日は、私が委員長を務めた「国会事故調」の宇田統括の右腕を務めてくれた石橋哲さんがアレンジしてくれたものです。石橋さんは「国会事故調」が終わった後も大学生、高校生と一緒になって、考え、行動する若者たちの支援をしています

翌日の現地の新聞にも、この訪問についてちょっと書いてありました。

福島高校の生徒が取材編集している学校新聞の記事を紹介します。

2016年度こ梅章10号1面「こ梅章」10号1面(平成28年7月21日発行)

素晴らしい人達との素晴らしい一日でした。