「医学生のお勉強」 Chapter6:医療経済(2)

昨今の医療費自己負担の増加等の議論を聞いていると
いかに医療制度の本質に関わる論点が抜けているかが、
よく理解されるのではないでしょうか
セッションのオリジナルタイトル/Healthcare System and Healthcare Economy

 

■経済学からみた国民皆保険

――:
一つここで提案してもいいですか。30兆円の医療費が高いか安いかをただ議論するのはポイントがはっきりしていなくて。だから高い安いの前に、医療費の半分を占めている国民皆保険制度の現状、つまり国民皆保険がきちんと機能しているのか、時代に対応しているのか、とかから議論してみませんか?

司会:
僕もそう思う。年齢別の人口構成がどんどん変わっていくわけでしょ。国民皆保険は、「みんなが自分たちでお金を出し合って、万一病気になったときでもあまりお金のことを心配しないでいいようにしましょう」という制度。ただ、高齢化社会になったら、国民皆保険の仕組み自体が維持できなくなるというのは十分予想できる。その一方で、「でも自分が毎月払うのはいやだ」というのは明らかに矛盾している。でも「それを増やしたらいいですか?」と聞かれると、頭の中が混乱して高いと言ってみたり、安いと言ってみたりする。

井伊:
私は最初にお話ししたように、世界銀行の仕事でボリビアとエルサルバドルの医療改革に携わっていたのですが、特に厚生省の役人の人たちと一緒に仕事をしていたので、現地の人たちに日本の医療制度のことについていろいろと聞かれて、皆保険だって話をしたのです。日本の国民皆保険なんてすごい憧れの的でした。でも当時は日本の医療制度に詳しくなかったので、それがきっかけでいろいろ勉強したら、日本の皆保険制度にもそれなりに問題点があることにだんだん気がついてきたんです。でも途上国にとっては素晴らしいことですよね。病院に行きたいときにすぐ行けるとか、感染症の予防。ちょっとしたことでもかなり乳児死亡率が減らせるのに、病院に行けなくて死んでしまったりすることが日常的に起きているのですから。
アメリカにも8年近くいたんですが、アメリカでは医療保険がすごく高くて、保険のない人がかなりいます。本当に皆保険の制度はすばらしいと思って帰ってきたんですが。でも日本は昭和36年に国民皆保険ができて、1960年代くらいまではよかったと思うんですが、高度経済成長を経て21世紀になっても、保険の制度の基本的な枠組みが40年間近くほとんど変わらないのには問題がある。いつでも誰でもどこでも気軽に病院に行かれる、っていう点ではいい制度だと思うんですが。どういうことが問題点かと。

――:
資料でいただいてる井伊先生の「やさしい経済学」の1枚目の真ん中にある記事ですが、2つのモラルハザードのところの3段目。「具体的には、2つのモラルハザード(倫理の欠如)が起きている。1つは病気になっても医療費の一部だけ負担すればいいので、病気を予防をする注意や努力を怠りがちになることだ。もう1つは保険があるために、ちょっとした病気でも医者(それもより高機能な病院)にかかろうとすることだ」とありますが、「モラルハザード」について、もう少し詳しく説明していただけますか。

井伊:
例えば自動車保険に入っていると、事故を起こしても保険でカバーしてくれると思ってスピードを出し過ぎてしまう。ちょっといい火災保険をかけているから、家が焼けちゃっても・・・でも家が焼けちゃったらいやだなあ。借金があるから大切なものは一応どけておいて、それで不注意で火事を起こして保険金をもらうとかね。それはちょっと大げさな例ですけど、そういうのがモラルハザードの例です。

司会:
本来よかれと思って作った制度を、悪用してしまう。

井伊:
そう。医療も自己負担が安いですから、そういうところはあるんではないでしょうか。普通だったら1万円払うところを1割負担で1000円だったら、市販の風邪薬を買うより安い。「だったら大学病院に行って3時間待ってもいいかな」って人もいると思う。
でも、実際に病院や薬局で払うお金のほかに時間のコストってけっこう大変で、会社員だと1日休むことで給料が少なくなるとか、家庭の主婦が午前中は家をあけることで家事を誰かに頼まなければならなくなるとか、いろんな制約がかかってくる。そのコストを経済学では機会費用といっています。特に病院にくる高齢者が増えてしまうというのは、今は高齢者医療でお金もたいしてかからないし、機会費用も少ないし、病院にくることによって失うコストがあまりない、ということが大きいのではないでしょうか。

司会:
経済学の講義みたい。

井伊:
病院に行くっていうことは、病院でお金を払うこと以外に、特に日本の病院だと、3時間待つとか、1時間かけて行くとかいうでしょ。専業主婦の場合の機会費用は学歴とか年齢から、「もしこの人が働いているとしたらだいたいこのくらい稼げる」と仮定して計算しています。

――:
経済学のことを知らないので教えていただきたいんですが、今言ってる機会費用っていうのは患者側、病院側、どちらの側の視点ですか?

司会:
患者側。例えば、ある患者がフルタイムで仕事をしてるとするでしょ。病気になって病院に行きます。保険がきいて自腹の医療費が1000円だとして、お財布からなくなるのは1000円だけど、もし病気じゃなくてそのまま働けた場合、月給が60万円とすると、1カ月30日だとして1日分の2万円はなくなるわけ。

――:
だからそれは患者さんを生産者としたときの話か。つまり患者さんが働いていたら生まれたはずのお金? じゃあ、ロスのことですか?

司会:
そう。2万円がなくなって、1000円も払った。。

――:
なるほど。

井伊:
詳しいですね。モラルハザードの話に戻りますが、皆保険にも病気を予防するインセンティブがないといけないと思います。例えば、食べ物に気をつけたり、高い会費を払ってスポーツクラブに入って運動をして、病気にならないようにしている人と、タバコを吸ったり、食べたいものを食べ放題で全然健康に気をつけない人とは、20年後、30年後には明らかに違ってくる。そういう摂生をしていない人が糖尿病とか心臓病になって非常に高額の医療費を費やす。でも、支払う保険料は健康に気をつけている人と同じ額です。だから同じ保険料を負担させる皆保険のもとでは、病気を予防すると損をする気がしてしまう。
例えば、わかりやすいのは自動車保険で、自動車保険は事故を起こさないように気をつけていれば保険料が下がって、事故を起こすと保険料が上がりますよね。事故は起こそうと思ってなくても、どんなに気をつけていても起こってしまう。病気もなろうと思わなくても、どんなに気をつけていてもなることがあるので、最低限はカバーする必要があります。でももう少し選択肢があってもいいと思う。

司会:
先生はお書きになった記事の中とインターネットでも対策としてご提言なさっていますが、「自動車保険と似たような制度を作っていこうか」とおっしゃってますね。自動車だと自賠責があってそれから任意保険がありますよね。それと同じように一階建て部分の「ミニマム」と称するところ、それには全員入る。プラス任意で民間保険に入る。そうすることで高いとか安いとかいう問題は保険で解決するんじゃないかとおっしゃっていますが、これについてみなさんどう思われますか?

――:
その前に一つ質問してもいいですか? 用語がわからなかったんですが、「価格弾力性」というのはなんですか?

井伊:
それは経済学ではとても重要な概念です。価格が下がるとみんなほしいと思うから需要は増える。だから逆に価格が高ければ需要が減る。多少例外もありますけど。例えばマクドナルドのハンバーガーは安いけど好き嫌いがあるので、ちょっと値段が下がっただけで3倍食べちゃう人もいれば、ちょっと下がったくらいでは買わないという人もいる。需要曲線にはいろいろな形がある。それを正確に測ろうとするのが「価格弾力性」なんです。
医療の例でいうと、患者さんは自己負担を1000円払っていたとします。負担を1割増やして1100円にした。そのときにこの病院の収入は増えると思う? 自己負担を1割増やすというと、たいてい開業医の人は猛反対するんです。それはたぶん病院の収入が減ると思っているからです。例えば、今まである診療所に100人患者が来ていたら、診療所の収入は10万円ですね。自己負担が1割上がることによって、「たいしたことないから診療所へ行かないで市販薬を飲もう」ということで、患者さんが10人減って90人になったら、診療所の収入は9万9000円。でもすごくつらくて治療の必要があれば、1100円になっても患者さんがほとんど減らないかもしれない。それで95人の人が通院すると診療所の収入は10万4500円。
だから価格が上がったから、一概に収入が減るということはないですよね。だけど価格が下がったときに需要がどのぐらい減るかは財やサービスによって違うし、同じ医療サービスでも、その先生は丁寧に診てくれるので値段が高くなっても行こうとか、値段が高くなったら行く価値がないやと思ったり、ほかの病院に変えようとか。「需要の価格弾力性」っていうのは、「価格が変化したときに需要がどの程度変化するか」ということ。1%価格が上昇したときに、1%以上需要が減少してしまうと、「需要が弾力的である」と言います。価格が上がることによって、需要がガクッて減ってしまうことですね。逆にそれが1%よりも小さいと「需要が非弾力的である」って言います。
違う例でいうと、私は横浜ベイスターズの大ファンで横浜球場に時々応援に行くのですが、巨人戦のときだけ入場券の値段が高くなるんです。どうしてだと思いますか? 巨人戦の入場券の価格弾力性は低いんですね。巨人ファンは多いので、多少値段が高くても、入場券をほしいと思う人、つまり需要する人は、ほとんど減らないんです。すごく人気のある歌手のコンサートチケットも価格弾力性が低いですね。
それでは「医療サービスの需要の価格弾力性は弾力的なのか、非弾力的なのか」という議論があって、アメリカでは70年代にRAND研究所が行った研究がとても有名ですが、そこでは価格弾力性は、「非弾力的なほうにあるのではないか」と結論しています。
医療サービスもいろいろあって、風邪のときの医療サービスっていうのはたぶん弾力的。だからもし価格が2倍になったりしたら病院に行くのをやめてしまう人がかなりいると思う。逆に重病のときはいくら値段が上がってもほかのものを削っても病院に行こうとするでしょう。医療サービスといっても、その中でもいろいろと違う。これから必要とされる医療サービスっていうのはけっこう価格弾力的なもの、例えば介護とか生死にあまり関係ないですよね。お金持ちの高齢者も増えてますから、お金を出すからいいサービスを受けたいという人も多いのではないかしら。皆保険ができた当時のように日本が貧しかったときには、みんなが最低限の医療を受けられるということが国の政策となっていたわけですが、今はたぶん違ってきたのではないでしょうか。

司会:
弾力性を英語で言うとなんですか?

井伊:
elasticityです。「弾力的である」っていうのはelastic。「非弾力的である」っていうのはinelastic。

――:
価格が高いほうが需要が増えるんじゃないんですか。ブランド品とか。

井伊:
いろいろ財によっても違うんですよね。代替財があると需要っていうのは弾力的になると言われています。JRと私鉄がいい例なんですけど、八王子までの運賃は、同じ新宿からでてるのに、JRと京王線で昔は2倍くらい違っていた。だからJRがちょっと上がると、みんな京王線に変える。こういうのを価格弾力性が高いといいます。医療サービスの場合は風邪とか皮膚病などは弾力的だと言われていて、それはなぜかというと、市販薬などの代替財があるから。逆にそういう代替財がないものは非弾力的になる。

司会:
用語の説明はいいですか?

井伊:
これは医療経済について議論するときに非常に大事です。

 

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■仲間たちの横顔 File No.25

Profile
私は大学の経済学部を卒業後、某メーカーに総合職で入社しました。入社後はコンピュータ部門に配属され営業や販売促進(カタログ作成や展示会開催等)の仕事をしておりましたが、ふと医師になりたかった子供の頃の夢を思い出し、その夢を実現させたいという思いが強くなりました。その後、働きながらの学士入学試験で幸い合格することができ、今に至ります。

Message
今回のテーマはどれもみな現在の医療における身近な問題ばかりだったので大変興味深いものでした。他の人の意見を聞けることでこれまで自分一人で考えている時とは違う新たな視点に気付かされることが多く大変勉強になりました。これらの問題はすぐ答えが出るものではないと思いますがこれからも自分なりに考え続けていきたいと思っています。お忙しい中、この様な機会を与えて頂いた黒川先生、本当にありがとうございました。

 

Exposition:

  • 民間保険
    生命保険会社などが販売する医療健康保険。これらは国民健康保険などの加入が義務づけられている公的な保険に対し自らの意志により加入するものである。
  • RAND研究所
    1948年設立。アメリカの非営利団体でシンクタンクの先駆け。RANDとはresearch and development を短くしたもの。政府や企業の幅広い分野における政策・方針の意志決定について、その名の通り調査と分析に基づいたコンサルティングを行っている。サンタモニカ、アーリントン、ピッツバーグ、ライデン(オランダ)の4カ所に本拠を置く。

 

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