宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その7です。

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

7.選挙は国民一人ひとりの権利

組織に所属しているか否かにかかわらず、みなさん一人ひとりが常にしなくてはいけないことがある。
それは選挙では必ず投票することだ。これは民主主義での皆さんの権利であり、当然のことだが行政当局はいつも投票の状況を調査している(註1)。皆さんの投票率が低ければ、政治家たちのあなたへの関心が薄れる。政府からは甘くみられる。皆さんが三権分立で定められた、あなたたちの代表たる立法府への議員(地方選挙でも同じことだ)を選ぶことに興味がないからだ。皆さんの投票率が低ければ、利害関係者、特定の団体を代表する議員が選ばれる傾向は強い。だからあなたたちの声は反映されにくい。
自分たちを代表するような候補者がいないという声もある。だが選挙で投票することで民主制度は始まるのだ、民主制度を機能させるのは時間がかかることなのだ。民主制度は与えられるものではない、自分たちで作り上げていくものだ。
だから、極言すれば、選挙で投票しない人には発言権がない、ともいわれるようになっていく。特にこれからの将来を築いていく若い人たちの投票率の低下は大問題だ。もっともっと多くの若い人たちが選挙に参加して初めて、日本の民主制度を機能させていくことができる。時間はかかるが、これはとても大事なことなのだ。特に若い人たちにとっては自分たちの将来がかかっている。あなたたち若者が納得できるような候補者が、きっとでてくるようになる。


1. http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/index.html (総務省によるデータ)

→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その3
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その4
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その5
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その6(1)
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その6(2)


高校生への講演とPEAKのレセプション

10月に入ってから、2回ほど高校生を対象にした講演をしました。いつものことですが、「変わる世界、あなたの選択」という趣旨です。

一つは、ある進学塾の主宰で、東大を受けようとしている高校生に向けての講演です。あいにくの台風来襲という大雨のなかを100人ほどが参加。多くは高校1、2年生でしたが、90分の講演の後、「10年後には何をしている、そのためには2年後に何をしているか」をグループで討議、簡潔にまとめて発表、各グループで説明、全員で評価、というセッションでした。

次いで、東大の駒場で毎月2回開催されているという「高校生のための金曜特別講座」。第300回ということでお招きを受けました。参加した高校生たちは80人ほどでしょうか。ご家族の方や一般の方もおられました。去年の東大の学部入学式の私の祝辞などの資料もあらかじめ配布していただきました。

最近、このような講演では映画「Matrix」の一部をお見せすることにしています。「権威を疑え」「常識を疑え」ということです。

参加した高校生からは、「今までの東大講座と一変した雰囲気」、「今いる社会に対しての考えが変わった」、「最初と最後のMatrixは同じなのに違って感じた」等々、多くの若者が何かに飢えている、と感じるコメントが多くありました。

若い人たちとの交流は楽しいですね。何しろ急速に変わる予測できない世界の中で、日本人として活動するのですから。

講演の後は東大のPEAKプログラムの留学生たちが集まり、ちょっとしたレセプションをしてくれました。外国からの先生たちも集まってくれて、楽しい時間を過ごしました。これはPEAKを担当している教員の一人、松田良一さんのお世話になるものです。

PEAKにも課題も多くあるようですが、留学生のニーズをくみ取って、うまく対応しながら成長させてほしいです。


研究者のモラル、小保方さんが開けたパンドラの箱

かなり下火になっているようには見えますが、研究者をめぐっていろいろと問題が起こっています。

理研の小保方さんの事件、東大を含んだ教授と製薬企業との「癒着」の問題などです。繰り返し起こって、しばらくメディアで大きく取り上げられますが、しばらくするとまた繰り返すのです。

このような問題は どこでも起こりうることですが、そこから学ぶ姿勢、さらにもっと社会的にも、根本的な問題にも注意を払う必要があります。研究者の「自律精神」の欠如です。

国会事故調で明らかにしたのも、そのような日本社会に深く存在している問題を指摘したのです。

今年の5月19日のブログ「日本の科学と精神」でも指摘したところです。日本の研究は基本的に「家元制」だと。

米国で、独立した研究者として私と同じように長い年月を過ごした市川さんは、理研問題の外部審査の委員も務めました。そこから見えたことについて、きわめて示唆に富んだ意見を「小保方晴子が開けたパンドラの箱」として述べています。

ぜひ参考にしてください。これは正しく鋭い指摘です。

特に関係者は知っていることかもしれませんが、「不都合な真実」を無視することなく、意識して解決していくことこそが、指導者たちの責任と思います。

将来の研究者を育てる意識が不足している、あるいはその精神が受け継がれていないのではないかと思います。


東京大学でCharles Castoさんを迎えたパネル

10月9日、東大の本郷キャンパスで「3.11後の原子力を考える」というパネルがあり、私もお招きをいただきました。東大の佐倉 統さんとTemple大のKyle Clevelandさんの司会、パネルには3.11の時にすぐに米国から派遣された、米国で原子力発電の運転・規制の実務をこなしたベテラン Charles Castoさん、事故当時の内閣官房副長官だった福山哲郎さん、3.11当時は内閣府原子力委員会委員長代理だった鈴木達治郎さん、元朝日新聞主筆で、いわゆる「民間事故調」を主催した船橋洋一さん、そして私です。

パネルでは それぞれの活発な意見の開示と交換ができました。多くの方の参加とNHKの取材が入りましたが、質疑の時間になると、いつものことですが、質問ではなくて、ご自分の意見を言う方が多いのですね。司会の佐倉さんにお願いしておいたのですが、これも日本のスタイルなのでしょうか。

福島原発事故の時に、米国と政府、東電の間のつなぎ役を果たした細野補佐官(のちに大臣)が、最後のほうで参加されました。

私としては、Castoさんが福島の事故の経験から「Crisis Management: A Qualitative Study of Extreme Event Leadership」という、300ページに及ぶ素晴らしい論文を書き上げ、博士(PhD)となったことを会場の皆さんにも紹介しました。

パネルでは、いろいろ話は弾みましたが、結局、日本はIAEAの指摘する「重篤な事故の起こった時に 住民を逃がす“深層防護”をしていなかった」ことは国内外の関係者の間では広く知られていますし、今もってその備えのない原子力発電所がいくつもあることが指摘されていました。

ではどうするのか。みなさんの意見は、ついつい各論になりがちでしたが、私は基本的な考えを繰り返したと思います。「国会事故調」の骨子は、事故の事象ばかりでなく、福島原発事故の背景にある日本社会のありかた、つまり事故は「氷山の一角」であることを指摘し、「規制のとりこ」「三権分立」などの不備、つまりは日本の統治機構の問題であることを、繰り返し説明しました。

翌日のことですが、同時通訳をしてくれていた方から、以下のメールを頂だきました。うれしいですね。

「黒川様、昨日のシンポジウムでお世話になりました、通訳のXXと申します。先生のお話、裏で伺っていて鮮烈な印象で、国民としてもやるべき事は沢山あると感じました。これからも先生のご発信などで勉強を続けて行く所存です。先生の益々のご活躍をお祈りしますとともに、お世話になりました事、御礼申し上げます。」

さっそくメールで返事をしたところ、

「お返事を頂き恐縮しております。 シンポジウムを経て、先生の発信されていらっしゃる様々な情報を拝読・拝聴し続けており、大変な刺激を頂いております。これからも先生のご発言をとても楽しみにしております。」

こんな交流が、自然発生的に起こるのも、便利なネットの時代ですね。

Castoさんとはすっかり意気投合して、帰国前日には私の仲間たちと私的な議論の場、その後はディナーと、楽しい時間を過ごしました。


宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その6(2)です。
 

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

6.「アカウンタビリティ」とは何か?

(続き)

どの組織でも、一般的にいえば、日本において、個人の責任感のなさが問題なのだ。組織の上へいくほど権限ばかりでなく、当然のこととして責任も大きくなる。だが、何かあった時の責任ある立場の「個人」の責任が特定化されない「説明責任」となりがちだ。テレビなどで頻繁にみる「責任者」らしき人たち数人が「申し訳ありませんでした」と言って、なんとなく収束していく不思議な組織の統治機構。
これは国外との関係でも、たとえ合意が得られても、事故が生じた時などは責任の所在をめぐって紛争のもとになりかねないことなのだ。グローバル世界では、日本の組織、機関での、権限と責任をもっと明確にしないと、組織、そして決定プロセスの不明確さから世界の信用を失いかねない。事実、その傾向は顕在化しつつある。
世界における日本の現状について、中根氏は先ほど紹介した「あとがき」の中で、「国際的にみると、日本の存在はまだまだ低調である」「経済力や技術の面では圧倒的にすぐれた位置にありながら、世界というか国際的にインパクトを与えうるような意見の表明ができるリーダーが出ていない」と指摘している。

その問題を解決するヒントとしてこの本で提示された「異論を唱える義務」の意味について、あらためて一人ひとりが深く考えてみてほしい。これはどんな組織でも極めて大切なことであり、GE社長・会長であったジャック・ウェルチも、この点を、優れた企業の文化として重要であることを指摘している(註1)。
「仕方ない」などとあきらめずに、「組織をよりよい方向に持っていくためには、年次、年齢などに囚われずに自らの考えを示していくことは組織にとって大事なこと」であり、「それは、組織の一員としてやらねばならぬこと」であり、さらには「自分にも、組織にも、相手にとってもプラス」である、との認識を、国会事故調のプロセス、さらにこの宇田さんの著書から学び、「180度」思考を転換することをお勧めしたい。世界は動いている、日本の組織だけが例外的ではありえないのだ。


1. ジャック・ウェルチ、スージー・ウェルチ著、斎藤聖美訳『ウィニング 勝利の経営』2005年、日本経済新聞社(原題‘winning’)。

 
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その3
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その4
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その5
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その6(1)


宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その6(1)です。
 

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

6.「アカウンタビリティ」とは何か?

社会のおける組織と個人の「タテ」の関係性が日本の常識であるとの意識があるから、特に大企業や役所では、この序列をより強く維持しようとする。「このような組織はつぶれないから」と考え、いつまでもそこにいられる、何があってもその組織に「しがみついて」いなくては、と思い、時には理不尽と認識していても、そのような思考と行動をする。
またそのような思い込みのまま、太平洋戦争の敗戦以降は東西冷戦の枠組み内での経済成長によって「自信」を回復し、それが次第に「慢心」「おごり」となってきたことは否定できない。つまり「政産官」、そして「学」も「メディア」も、「官僚の無謬性」(こんな無責任で、ありえないことがまかりとおっていた)などといって無責任体制を構築してきたのである。太平洋戦争の時と同じように。

このような社会にあって、より大きな権限と責任ある立場の人たちが、自分が責任ある問題に対して、つい「ひとごと」のように思考し、行動する。だから言うべき意見を言わない。それを「仕方がない」と思って受け止めていた日本人の「思い込み」「マインドセット」が、今回のような大事故の背景にある。
この宇田さんの本はそれらを組織に属する個々の人の問題として鋭く提起している。企業人、官僚など、主として大きな組織を中心に活動する組織人にとって大いに参考になるはずだ。

この20年ほど「アカウンタビリティ」という言葉が頻繁に使われる。なぜか日本では「説明責任」などという「無責任な」言葉になっている。外来語の導入に際して日本でカタカナ語を使用するときによくある「Lost in Translation」の代表例といえる。
英米語であるが、これを使う時は「与えられた責務、責任を果たす」という意味であり、「責務、責任」より強い意味がある。これは、『ビジョナリーカンパニー3(註1)』でジェームズ・C・コリンズも指摘しているところである。この点について、この国会事故調の記者会見でも、私は何回も問いかけている。「日本社会で、より大きな責任・権限のある立場の人たちは、その責任が果たせなかった時に、どのように責任を取るつもりなのか」と。

「アカウンタビリティ」については、まことによい着目点の山本清さんの学術書『アカウンタビリティを考える――どうして「説明責任」になったのか』が2013年2月に出版された(註2)。著者は福島原子力発電事故、オリンパスの損失隠し、学校のいじめ、などをきっかけにしてこの本を著しているようで、2006年に「国立国語研究所で『アカウンタビリティ』を『説明責任』と言い換えたことが大きく影響している」と指摘している。

この著書の第1章では、この言葉は米国で好んで使われ、議会の下にあるGAO(「General Accounting Office」、日本での会計検査院に相当する)が2004年に「Government Accountability Office」へと名称を変更したことを挙げ、米国のガバナンスにとって「アカウンタビリティ」がいかに大切か指摘している。

第2章で「どうして『説明責任』になったのか」、第8章「日本社会におけるアカウンタビリティ」では、日本社会の特性を踏まえて検討を試み、中根氏の指摘と共通する「日本社会の力学/責任のあいまいさ」を指摘している。さらに実際の社会で、「アカウンタビリティが持つ懲罰性の意味合いで『説明責任』が使われることはほとんどない」(カタカナのない中国では「アカウンタビリティ」は「問責」となっている)、福島原発事故を受けての「原発事故でも、戦争でも責任があいまい」を典型例として、篠田正浩氏の指摘も明示的に引用し、また公共放送と政治との関係の違いをNHKとBBCを例にして触れている。

(この項続く)


1. ジェームズ・C・コリンズ著、山岡洋一訳『ビジョナリーカンパニー3』2010年、日経BP社(原題‘How The Mighty Fall’)。
2. 山本清著『アカウンタビリティを考える――どうして「説明責任」になったのか』2013年、NTT出版。

 
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その3
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その4
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その5


宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その5です。
 

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

5.「集団思考型マインドセット」問題

この本で検証された「集団思考型(Groupthink)(註1)マインドセット」というのは実に根深い問題だ。「集団思考の愚」というのは世界共通の課題ではあるが、特に日本社会では根深い問題である。
例えば、日本人は大学を出てどこかの組織に所属すると、そこに所属し続けることが当然と思い込んでいる。中央官庁の場合、財務省に、経済産業省に、文部科学省に入省すると、一生そこか、その関連先にいるものと思い込む。東京電力に入社するとそこでキャリアを積んでいくと思い込んでいる。○○銀行、○○商事などなどの大企業でも同じ。それが日本社会の「常識」だ。

だから、自分を紹介するときには「XX銀行の者です」「XX省の者です」「XX県庁の者です」「XX電力の者です」という、しかも何の疑念も持たずに。
一方、海外ではどうか。「XX銀行の者です」というよりは「私はバンカーです」にはじまり、「どんなバンカー?」「今はどこで?」という会話が始まる。
自分の職業人としての属性より、所属している組織で自己を相互に認識している。お互いの社会的地位は、その組織の社会的地位と自分の肩書で決まる傾向がある。

このマインドセットは文化的背景もあり、時には言語にも表れているとも思われる。「自分」(わたし、わたくし、おれ、ぼく、わがはい等々。文字の場合、例えば「俺」「おれ」「オレ」でニュアンスが違う)と「相手」(きみ、あなた、おまえ等々)を表現する言葉が多彩であり、それを相互関係から適切に使い分けることが大事である。男性の使う言葉、女性の使う言葉の区別も数多くある。
また「肯定」「否定」が最後に来る(「○○と考えます」「○○とは考えません」等、最後に自分の意見が明らかになる)など、相手の反応を見ながら、その場の雰囲気に気を配る会話、などはどうなのだろうか。これは専門家にもいろいろご教示をいただきたいところである。

以上、述べてきたことについては多くの優れた著書がある。それらは例えば、中根千枝氏の指摘する『タテ社会の人間関係(註2)』(1967年)の根底にもあるものであり、多くの日本人の「マインドセット」の背景として存在している。

ところで、中根氏によって『タテ社会の人間関係』の後に著わされた『タテ社会の力学(註3)』(1978年)が最近(2009年)、文庫本化された。そのあとがきで、1978年版と2009年版とを比較して中根氏は、
「三十余年ぶりに拙著を読みかえしてみた私の感想としては、本書は、当時の日本社会を叙述したものではなく、集団行動の分析で理論的な提示であるため、今の私からみても変更、修正を必要とする点は見出せない」
としながら、グローバル化していく世界の動向については、
「本書で述べた日本社会の構造そのものを変化させることではなく、所々、綻びが生じ、風通しがいささかよくなったとみることができる。筆者としては歓迎すべき傾向とみる。これによって個々人の自主性はより発揮しうるようになる。日本の集団による社会構造は個人の自主性をおさえる働きをもちやすく、こうしたことが、日本、日本人が特殊にみられるばかりでなく、世界の一員としてのプレイヤーの役割を充分にはもっていないといわれる原因となっていると考えられる」
と述べている。


1. http://en.wikipedia.org/wiki/Groupthink(日本語のwikiでは説明不足の感があるのであえて英語のURLとした)
2. 中根千枝著『タテ社会の人間関係』1967年、講談社。
3. 中根千枝著『タテ社会の力学』1978年、講談社。

 
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その3
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その4


宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その4です。
 

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

4.海外からの高い評価

報告書に対する海外での評価は極めて高い。科学者団体として世界最大であり、国際的にも評価の高いAmerican Association for the Advancement of Science(この団体の活動の一つとして一流と評価の高い『Science』を毎週発行している)が、この私に2012年度の「Scientific Freedom and Responsibility Award」(註1)、また外交分野では評価の高い『Foreign Policy』誌が、私を「100 Top Global Thinkers 2012」(註2)に選出していることからも理解できよう。私が受賞者といっても、国会事故調チームを代表して受賞しているのは言うまでもない。特に後者の選考の理由という「For daring to tell a complacent country that groupthink can kill」にいたく感動したことを今でも覚えている。

また、この1年半あまり、海外の関係者からの会見、懇談等の要請、講演の招聘も多くある。私はできるだけお受けするようにしている。何しろ福島第一原子力発電所事故と、その対応は世界中の注目を集めていることであり、国会事故調の報告とその意味の理解を広めることは、日本国の信頼の構築にとって、極めて大事なプロセスと認識しているからだ。
特に海外の原子力関係者からの依頼、また大事故に対する危機管理に関係する方面からの面会、講演の依頼も多い。世界はこの大事故から学ぼうとしているのだ。残念ながら、彼らの多くから、日本の当事者(政府、官僚、東電、産業界、学会の責任者)たちに事故の根源的な原因を問うても、彼らにとって理解できるような回答がもらえないという不満をよく聞く。

海外や国際的な会合などで、「国会事故調」という委員会が「日本の憲政史上初」(註3)というと、多くの政府関係者や識者から「信じられない」と驚かれることが多い。英国では政府として重要な課題については、年に数本の独立委員会が設置されている。特にBSE(狂牛病)事件(註4)では極めて透明性の高いEUの独立調査委員会等の報告と提言を採用しつつ、対策を講じ、BSEの出現から20年経過して、初めて英国の牛肉が輸出されるようになったのだ。政府の信用が失われた時の国家のとるべき姿を現している一例といえる。
米国では歴史的な背景もあって、主として科学アカデミーなどに年間100程度の独立調査委員会が政府、議会などからの委託によって設置されている。福島第一原子力発電所事故については、2012年8月から2年間の予定で、独立した調査委員会が設置されて、今年の6月頃に報告書が提出される予定である。
2011年の夏、ノルウェーの首都オスロでは、中央官庁のビルが爆破され、その2時間後、多くの人で賑わう避暑地で銃の乱射事件(註5)が起きた。同じ1人の兇漢の仕業だった。この大事件に際して、立法府は速やかに独立調査委員会を設置した。その1年にわたる報告書(註6)では、政府(行政府)の監督の不手際を厳しく指摘し、首相と内閣の責任が激しく追及されたという。2012年11月にノルウェー首相の来日の際には、特に私に面会したいとの要請があり、1時間ほどの対談の機会が持たれた。
また、米英仏他の国の関係者、原子力関係者とも面談等の機会は多い。事故の根源的原因及び背景にはなにがあるのか、この宇田さんの本はその解明へのヒントを与えてくれている。


1. http://www.aaas.org/news/releases/2012/1203kurokawa_award.shtml
http://kiyoshikurokawa.com/wp-content/uploads/typepad/aaasspeach.pdf (受賞の際の謝辞)
2. http://www.foreignpolicy.com/articles/2012/11/26/the_fp_100_global_thinkers?page=0,41#thinker63
3. 白井誠著『国会法』2013年、信山社。
4. http://en.wikipedia.org/wiki/Bovine_spongiform_encephalopathy
5. https://en.wikipedia.org/wiki/2011_Norway_attacks
6. https://en.wikipedia.org/wiki/Gj%C3%B8rv_Report_(2012)

 
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その3


宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その3です。
 

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

3.国会事故調チームづくり

何しろ国会事故調という委員会そのものが日本では初めてのことなので、正直にいって、組織の構築と運営などについて、大きな不安はあった。また、私を含めた10人の委員は国会で任命されているが、各委員の調査に協力する方たち、また多くのスタッフも、基本的には私の責任で集めなければならない。他に本業がある方も多く、日本で6ヶ月だけ国会の仕事をフルタイムで手伝える人などなかなかいない。
そして、特に調査をまとめる責任者(調査統括)を見つけることは大きな「カギ」だった。

委員はそれぞれ意見を持っていても、そのままでは報告書にならない。委員の調査を踏まえつつ、調査の全体を指揮し、まとめる調査統括、極めて有能な「プロジェクトマネージャー」が必要だと考えていたからだ。それには「プロジェクトマネージャー」としての経験、能力は言うまでもないが、この国会事故調の意味を直感的に理解し、共感する価値観も必要だ。

これを誰にお願いするか、誰なら受けてくれるか。数人の人物が頭に浮かんだが、「これを任せられるのは宇田左近さんしかいないな」と思った。彼は、郵政改革など多くの政府組織改革で活躍していたし、一緒に仕事をしたことはないが、個人的には知っていた。
そして、携帯電話で15分ほど話しているうちに、受けてくれることになった。「これで国会事故調はいけるかも」と、とてもうれしかったのを覚えている。その後、数回打ち合わせを繰り返し、12月8日、辞令の日を迎えることになる。

予想通り、宇田調査統括は私の持っている基本姿勢について、説明しなくても共有していた。これはチーム運営に決定的に大事なことである。何しろ、この「憲政史上初」のプロジェクトは、もちろん前例はなく、時限の議員立法に書いてあることを、しかも「ほぼ6ヵ月」という限られた時間でまとめながら進め、報告書として提出するのだ。極めて高いプロジェクトマネジメント能力と、それをサポートするチームに参加する、能力あるスタッフの勧誘にも、多彩な人脈を持っていなくてはならない。

そして予測していたとおり、いくつもの困難が次から次へと発生したが、調査委員会の姿勢について、私と宇田さんの考えの基本がブレることはなかった。この国会事故調が皆さんにも、そして特に海外でも高く評価される成果を出せた大きな理由だ。
このようなチームの基本姿勢の「背骨」があればこそ、報告書には、その基本的な考えとして、「ファクト(事実)のみを記載する」「個人的な判断は可及的に避ける」「委員全体の署名を得る」などのいくつものステップをクリアしていくことができた。さらにこの報告書の基本姿勢によって、研究論文と同じように委員会とは独立した「査読(さどく)、ピアレヴュー」もしていただいたし、報告のプロセスも報告書も、多くの制限の中で、日本ばかりでなく、世界の専門家たちに「ピアレヴュー」をしてほしいという私たちの考えを反映したものとなった。

 
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2


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宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その2です。
 

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

2.国会事故調の根底を貫いた基本姿勢

ここで国会事故調の話に少し触れたい。
この委員会委員長の辞令を受けるにあたって、私の国会でのあいさつに運営の基本姿勢は示されている(註1)。私が委員長として、この「憲政史上初」という「国会事故調」をどう認識しているのか、国会という立法府、「国権の最高機関」から負託されたという事実の重みをどう捉え、どう実行していくのか――委員長の挨拶として、冒頭での「3分間」と最後の「2分間」で、国会議員、行政府の人たち、他の政府関係者、東電他の事故の関係者ばかりでなく、国会での辞令交付という最も重い「公」の場で、国民にも、各委員にも知っておいてもらうことが、極めて重要と考えていたからだ(何しろ委員の皆さんといろいろ議論している時間の余裕さえもなかったのだ)。

国会での辞令交付の時に私は、「国民」「未来」「世界」という3つのキーワードを共有し、「国民の、国民による、国民のための委員会」「過ちから学ぶ未来に向けた提言」「この事故を世界と共有する責任」、この3つの基本原則にのっとって、6か月にわたる活動をする旨述べた。

そして、当日最後の委員長挨拶で以下の要旨を述べた。

「今日は12月8日、真珠湾攻撃70周年の日である。毎年8月、太平洋戦争を経験し、生き残った方々の証言等について特集した番組がテレビで放送される。そこでは、その時々の責任ある立場の人たちの『わかっていたけれども言えなかった』という趣旨の発言が繰り返し出てくる。
この福島第一原子力発電所事故に際しても、元○○という肩書の方の発言が収録された特集番組がテレビ等で放送されている。そのコメントについて多くの国民が、『太平洋戦争に関する証言』とよく似ている、と直感的に感じていると思う。日本の責任ある立場の人たちは、また同じことを繰り返している、失敗から学んでいないのか、と。このことを考えてみたい」

註1.
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/025117920111208003.htm
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=41488&media_type= (両院議連合同協議会)

 
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1