「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その5

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宇田左近さんの著書「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」に書かせていただいた「解説」その5です。

【解説】異論を唱える義務―――私たち一人ひとりが「今」やらねばならないこと
元国会事故調査委員会委員長 黒川 清

5.「集団思考型マインドセット」問題

この本で検証された「集団思考型(Groupthink)(註1)マインドセット」というのは実に根深い問題だ。「集団思考の愚」というのは世界共通の課題ではあるが、特に日本社会では根深い問題である。
例えば、日本人は大学を出てどこかの組織に所属すると、そこに所属し続けることが当然と思い込んでいる。中央官庁の場合、財務省に、経済産業省に、文部科学省に入省すると、一生そこか、その関連先にいるものと思い込む。東京電力に入社するとそこでキャリアを積んでいくと思い込んでいる。○○銀行、○○商事などなどの大企業でも同じ。それが日本社会の「常識」だ。

だから、自分を紹介するときには「XX銀行の者です」「XX省の者です」「XX県庁の者です」「XX電力の者です」という、しかも何の疑念も持たずに。
一方、海外ではどうか。「XX銀行の者です」というよりは「私はバンカーです」にはじまり、「どんなバンカー?」「今はどこで?」という会話が始まる。
自分の職業人としての属性より、所属している組織で自己を相互に認識している。お互いの社会的地位は、その組織の社会的地位と自分の肩書で決まる傾向がある。

このマインドセットは文化的背景もあり、時には言語にも表れているとも思われる。「自分」(わたし、わたくし、おれ、ぼく、わがはい等々。文字の場合、例えば「俺」「おれ」「オレ」でニュアンスが違う)と「相手」(きみ、あなた、おまえ等々)を表現する言葉が多彩であり、それを相互関係から適切に使い分けることが大事である。男性の使う言葉、女性の使う言葉の区別も数多くある。
また「肯定」「否定」が最後に来る(「○○と考えます」「○○とは考えません」等、最後に自分の意見が明らかになる)など、相手の反応を見ながら、その場の雰囲気に気を配る会話、などはどうなのだろうか。これは専門家にもいろいろご教示をいただきたいところである。

以上、述べてきたことについては多くの優れた著書がある。それらは例えば、中根千枝氏の指摘する『タテ社会の人間関係(註2)』(1967年)の根底にもあるものであり、多くの日本人の「マインドセット」の背景として存在している。

ところで、中根氏によって『タテ社会の人間関係』の後に著わされた『タテ社会の力学(註3)』(1978年)が最近(2009年)、文庫本化された。そのあとがきで、1978年版と2009年版とを比較して中根氏は、
「三十余年ぶりに拙著を読みかえしてみた私の感想としては、本書は、当時の日本社会を叙述したものではなく、集団行動の分析で理論的な提示であるため、今の私からみても変更、修正を必要とする点は見出せない」
としながら、グローバル化していく世界の動向については、
「本書で述べた日本社会の構造そのものを変化させることではなく、所々、綻びが生じ、風通しがいささかよくなったとみることができる。筆者としては歓迎すべき傾向とみる。これによって個々人の自主性はより発揮しうるようになる。日本の集団による社会構造は個人の自主性をおさえる働きをもちやすく、こうしたことが、日本、日本人が特殊にみられるばかりでなく、世界の一員としてのプレイヤーの役割を充分にはもっていないといわれる原因となっていると考えられる」
と述べている。


1. http://en.wikipedia.org/wiki/Groupthink(日本語のwikiでは説明不足の感があるのであえて英語のURLとした)
2. 中根千枝著『タテ社会の人間関係』1967年、講談社。
3. 中根千枝著『タテ社会の力学』1978年、講談社。

→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その1
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その2
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その3
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その4
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その5
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その6(1)
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その6(2)
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その7
→「なぜ、「異論」の出ない組織は間違うのか」、私の解説 その8