今日は「性差医学」の第1回目の集会に一部出席しました。千葉県の堂本知事と千葉県衛生研究所長の天野恵子先生の主催で、Columbia大学のマリアンヌ・レガート教授(Partnership for Gender-Specific MedicineのFounder and Director) が、大変すばらしい話をされたと聞きました。私は午前は所要があって出られませんでしたが、最後に挨拶をさせていただき、これら「性差医学」には社会的歴史があって、18世紀の中ごろ「哺乳類」に何故“mammalia”と女性の特徴の乳房を使った背景にも触れました。不思議でしょう?ほかの種ではこんな性に関するあからさまな言葉は使っていません。何故、と考えるのがいつも楽しいのです。当時の西洋の科学は博物学による分類が盛んで、“mammalis”はリンネの命名です。
さらに1901年から始まったノーベル賞最初の女性受賞者がキュリー夫人(1903)、2度目の女性受賞者もキュリー婦人(1911)、3人目はキュリー婦人の娘であるという事を話しました。こんな男性優位の時代にこんなすごい女性がいたのです。
ノーベル賞を2度受賞した人は何人いるでしょうか?答えは4人です。キュリー婦人を除けば勿論男性です。1人はボーリングですが、彼が受賞した賞の一つは平和賞でしたから、ちょっと違うかとも思います。もう1人はバーディーン(1956)、半導体およびトランジスタ効果の発見と1972年に超電導現象の理論的解明です。そしてサンガーが1958年にたんぱく質、インスリンの構造に関する研究で化学賞、1980年に核酸の塩基配列の解明で化学賞を受賞しています。
キュリー婦人は親子(母娘)での受賞ですが、これも他に一組、父息子での受賞があるのみです。いかにキュリー婦人がすばらしいか理解できると思います。
ところで、日本にはそのような人はいるでしょうか?考えてみると津田梅子さんがそうだろうと思います。明治4年、7歳の津田梅子は他の4人の女性とともに明治政府の使節団の一員としてアメリカへ渡り、11 年間アメリカのランマン婦人宅で娘同様に育てられ、18歳で帰国。大きな困難を越えて女子教育に大きな貢献をしました。7年後の明治22年に再度渡米、Philadelphia郊外の女子大学Brym Mawrへ留学(私も行ったことがありますがすばらしいキャンパスです)、女子大学でも理科教育を重視していて、生物に興味を持った津田梅子は当時のMorgan教授(このMorgan教授は1933年に染色体の研究でノーベル賞を受賞しています)とかえるの卵を使った研究の論文を発表します。彼女の才能は高く評価されていましたが、日本に帰国。帰国後、津田塾女子大学を設立し女子教育に一生をささげました。ただただすばらしい人です。感動します。
この頃は「熱く」、志の高い人が何人もいました。今は、どこへ行ってしまったのでしょうか。