日本の科学と精神

このところちょっと静かになりましたが、科学研究の不正の問題がいくつか騒がれています。今に始まったことではないですが。

小保方さんの件はメディアの取り上げ方も異常でしたが、他にもいろいろありましたね。製薬界の大手N社、T社、これにかかわる大学の研究者の問題などなど。

科学研究はあるテーマについての「仮説の証明」の連続ですから、いつも「正解」はなく、それをさらに進めるところで私たちの世界の「進歩」があるわけです。400年前のガリレオの「地動説」では死罪に値するとされたものです。400年後にお赦しを得たわけですが…。

特に実験系では実験手法の正確さと再現性が大事です。それが科学を進める原動力になっているのです。

小保方さんの場合は、「発見した成果」のインパクトが強かっただけに、本人ばかりでなく、研究責任者、共著者は、もっともっと神経質になり、他のグループが独自に確認してくれるまで、毎日ハラハラドキドキだったはずです。なんであんなユルユルな態度で論文として投稿したのか、これがちょっと理解できないところです。指導の方たち、共著者の責任は重いです。どうしてこんなことが起こるのか。

メディアやネットなどでいろいろ議論されていますが、私は「応用物理」の巻頭言の原稿のゲラができたところだったので、その内容に沿った趣旨の返事を2、3の新聞等の問いに返事をしました。例としては以下のように書かれています。

「日本の研究者は、次の世代の研究者をトレーニングすることの重要性をどこまで自覚しているのか心配になる。欧米では、どんな大学院生を育てあげたかで、教員の評価が決まる。小保方さんをスケープゴートに仕立てて終わってはいけない」と語る、と。

つまりは、研究者の社会への責任の自覚ということです。

私の考えはこの巻頭言にあるとおりです。そして、100年前(明治34年11月22日)にベルツ先生が指摘している「科学の精神」を、現在の日本の研究者たちが自分のこととして理解し、行動しているのか、という点なのです。

制度を変えるだけでは不十分。指導者は何のために後進を教育し、後進を指導しているのか、この一点でしょう。

日本では研究でさえも「家元制度」だと私は指摘しているのです。不正をなくす対策を、というお題目だけではだめなのです。また、同じことが繰り返されるでしょう。

科学者が、科学する精神を理解し、実践しているか、なのです。そこから、この精神を次の世代が受け継いでいくのです。指導者は「家元」ではありません。

アブダビへ、そしてカタール王妃の日本訪問

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4月20日にアブダビへ。Khalifa Universityの理事会、そして卒業式への参加です。今年の卒業生は350人です。この大学は理工系だけの大学ですが、多くの優秀な学生が集まり始めています。

卒業式はEmirates Palaceという豪華版です。学長のTod Laursenも着任して4年、初めて自分の入学時の卒業生を送る式でした。アブダビの皇太子殿下もご列席。自ら卒業証書を一人ひとりに手渡されます。それだけの思いがおありでしょう。

私は、その夜遅く、といっても翌日の早朝3時にドバイ発で関空へ。ちょうど日本訪問中のQatar国のMoza王妃をお迎えして、Qatar財団の御一行に合流しました。翌日は京都大学へ、山中伸弥さんのiPS研究センターへの王妃のご訪問に同行。さらに翌日は神戸の理研へのご訪問にも同行し、野依理事長をはじめ、お出迎えと調印式に参加しました。

アブダビもカタールも日本との関係は石油、ガスなどでしたが、この10年ほどは科学研究などを通じた人材の育成に力を入れています。今年の初めにはアブダビの大学の首脳と、日本のいくつかの大学との交流の機会が本郷の東大で開催されました。また、3月にはアブダビ皇太子も訪日。その際、東海大学の高輪キャンパスも訪問され、山下泰裕副学長と柔道の交流、またソーラーカーの共同開発も始めています。

この様な機会を通じて、中東の人材育成への機会が増えることは、アラブ首長国、カタールというと、ついついビジネスばかり考えがちな日本の政府や企業にとっても素晴らしいことです。

世界を広く感じ取れる人材の育成は、将来にとって、日本ばかりでなくどこの国でも、大きな中心的課題です。

日本の大学もそれぞれの特徴を生かして、多彩な交流を世界へ広げてほしいものです。

Laurie Garrettのセミナー

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Laurie Garrettさんは、Council on Foreign RelationsのSenior Fellowとして活動している素晴らしい方です。このたび1週間の訪日ということでGRIPSでもセミナーをしていただきました。素晴らしい経歴で、生命科学の研究者から出発、そこから転向しPulitzer賞ほか、ジャーナリストとしても経歴は見事と思います。

Global Healthでも現場を基本にした多くの意見を書いていて、2007年の彼女のForeign Affairsの論文から交流が始まったのです。このblog postの中の写真にもあるように、最近亡くなったNelson Mandelaをとても尊敬していて彼女の部屋には尊敬する等身大のMandelaさんがいます。そして私が委員長をした第1回、第2回ともHideyo Noguchi Africa Prizeの選考委員になっていただいたのです。その時も、彼女の意見は、基本的に現場での観察と高い見識にあるのでほんとうに頼りになりました。

そういえば思い出しました。ダボス会議の時のことですが、緒方貞子さんを紹介したのですが、しばらくすると涙を流しているのです。「どうしたの?」と聞くと、緒方さんのことは「本当に尊敬しているのでつい感激で涙が. . .」ということでした。

彼女のGRIPSでのセミナーは50人ほどの方が参加、好評でした。あとから何人もの方からお礼のメールが来ました。

参考となる文献は、今年のForeign Affairs、11-12月号のトップに掲載の「Biology‘s Brave New World: The Promise and Perils of the Synbio Revolution」に書いてあることが中心です。

他にも参考になるCouncil on Foreign Relations 関係の資料が以下にあります。

1)Staying Safe in a Biology Revolution
2)Making the New Revolutions in Biology Safe
3)H5N1; A Case Study for Dual-Use Search

これからのバイオテクの行く末は、どんなことが起こるのかわかりません。しかし、ICT、ナノ、バイオなどの技術は進むばかりですから、Singularity1)へ向かって人類が進んでいくことを止めることはできません。

私たちは、どんな世界へ向かっていくのでしょう。

11月の海外いろいろ -3: アブダビへ

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夜の成田からEtihadで、アブダビへ。World Economic Forum(WEF)のGlobal Agenda Council(GAC)に。

これにも、もう6年程度出席しているでしょうか。宿泊は前回と同じく、これも豪華なYAS Vicery Hotel。会議は、隣接するつい最近F1レースが開催された会場です。

夕方まで、理事を務めるKhalifa科学技術大学(KUSTAR)を訪問したり、いくつかの関連の方々にも面会。翌朝到着する予定だった日本からの参加者の多くが乗る飛行機が、機械の故障で成田を出発できなくなった、というニュースが入ります。こちらはご当地におられる日本の友人何人かと楽しく夕食を楽しみました。

今回のGACは今年の3月にお会いした経済発展庁長官のNasser Al Sowaidiさんがホスト側のCo-Chairの1人でしたので、ちょっとご挨拶。

2日間の会議は、私が座長を務めるJapan Councilと、中国と韓国のCouncilとの会談、Council for ASEANなどを開催しました。3日目にはパネルに出ました。まずパネルの3人で問題を討論したうえで、グループに分かれての議論から何かを作り上げていく、そこでまた質疑応答がある、という楽しさを味わうこともできました。

1日遅れて日本から到着された方たちはほんとにご苦労様でした。2日間フルとはいえない参加でしたが、みなさん疲れた事でしょう。でも皆さん、お元気でした。

この辺のことは石倉洋子さんのblog12かれているので。

夜は、久しぶりに岡本行夫さんも誘って、慶応義塾の村井 純さん稲蔭 正彦さんたちと久しぶりにEmirate Palaceに夕食に出かけました。

今回、私のアブダビ滞在はそれだけではありませんでした。GACが終わった翌日、国会事故調査委員会で協力をいただいた佐藤さんと合流してKhalifa大学(KUSTAR)へ。ご当地は原子力発電を建設中でもあり、国会事故調の話、国際的な原子力の情勢等について議論をすることができました。原子力関係の方々も多くが出席してくれました。なかなか好評でした。

ところで、アブダビ政府が、この大学にかける意気込みは相当なものです。これからの計画等についても話を聞いて、夕食後、空港へ向かい、帰国の途に就きました。

New Yorkに始まる、けっこう長い旅でした。

11月の海外いろいろ -2: NYCからKLへ

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New York City(NYC)から、成田へ。そこで寒いNYCで必要だった防寒用の衣類を自宅に送り、Singapore Airlineへ乗り換え。A380で、初めてSuiteに乗ることになりました。なかなかのものですがEmiratesと違ってシャワーは無いのです。でも素敵な個室です。

午前3時過ぎにChangi空港着、そこで乗り換えて朝6時過ぎにKuala Lumpurへ。朝10時からの会議にでかけます。

San Franciscoまでにかなり進めた協力計画の最後の調整で、何とか調印にこぎつけます。関係者の皆さんに感謝。でも、もう一息の過程があるのです。とにかく前に進む、実行してみることが大事。この経験値が、関係者の間でも、そのうち役に立つでしょう。

同じ日の最終便で成田へ。成田から帰宅したものの、いろいろ詰め替えて、夕方には成田へ戻り、Etihadでアブダビへ、World Economic Forum、Global Agenda Council に参加するのです。

ちょっとクレイジー?まあそうかもしれませんね。

いろいろなところへ

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大阪で行われたMansfield財団による原子力の日米協力のパネル(10月1日)の後は、すぐに沖縄へ。OISTの理事会へ向かいました。

ここでは2泊(10月2、3日)の予定でしたが、風邪気味で、2日目を終わって東京へもどり、翌日4日はテレビ会議で参加しました。いろいろな課題はありますが、10年でここまで来たのは素晴らしいことです。しかし、これからが一つの転換期になるように思います。

5日の午前中は日本腎臓学会の「男女共同参画のパネル」に参加、その後は京都へ、STS Forum(10月5日~8日)です。これも今年で10周年を迎えました。素晴らしいことです。参加者も1,000人ほどと増加し、安倍総理のスピーチに始まる良い出だしでした。私も「ICTと教育」というセッションのパネルに出ました。期間中に多くの友人にお会いしますが、今年はQatar財団の方々も初めて見えられ、会談のほかにも、日本から協力していただけそうな何人かの研究者をご紹介しました。

8日、京都から帰ってからは、東京で某外資系企業の役員と会食。9日、10日はオリエンタル技研の35周年で2日にわたってOISTの設計を担当したKen Kornbergと講演をしました。彼はノーベル医学・生理学賞を受賞したArther Kornbergの息子さんで、お兄さんのRoger Kornbergはノーベル化学賞を受賞しています。
もう一人のお兄さんThomasもすごい分子生物学者です。

11日は自民党で新しい原子力規制委員会の在り方について議論、その後HGPI主催のグローバルヘルスの夏のセミナーでお世話になった「IOCA」のアトリエを訪問。これは企業役員などにも評価されているということで、一度は参加してみようと思いました。

夜はスイス大使館で、環境・交通・エネルギー・通信を担当する実力大臣Mrs Doris Leuthardさんを迎えて、主として原子力についての話題をめぐってお招きを受けました。

相も変わらずいろいろと忙しくしていますが、私が何かの成果が出しているのか(?)、貢献をしているのか(?)、といわれるとちょっと考えてしまいます。

San Franciscoへ

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San DiegoからSan Franciscoへ。今年3回目1)です。

今回は「America’s Cupの最終ラウンドを見に来た」、といいたいところですが、残念ながら違うのです。 以前にも書きましたがMalaysiaのNajib首相の「GSIAC」12)で、Fairmont Hotelです。America’s Cup、特にOracle 関係者らしい人たちも多くみられました。

なにしろこの1、2日でAmerica’s Cupの最終ラウンドの勝負が決まるかどうかというところです。‘Emirates Team New Zealand’ vs Defending Champion ‘Oracle Team USA’ で 「8:5」、挑戦者があと1レースで勝つというところでしたから。Hotelもはるかに高い料金、なかなか空きがない状況のようでした。

1日目はレセプション、2日目の午前中は「High Level Forum Green Future」のテーマで3つのパネル、私は最初のパネルに出ました。3つともなかなか良かったです。

昼食ではNajib首相のスピーチ、4つのMOUのセレモニーがあり、私も日本との協力の調印に参加しました。これは首相の科学顧問が、私と旧知のZakriさんだからできたことです。これからも両国間の関係も政府間ばかりでなく、民間も含めて多様で、多層な、いろいろな協力関係ができるといいのですが。

夜はご当地のビジネス関係の主宰で晩餐会があり、首相の講演とインタビューもありましたが、公式の会なのでワインも含めアルコール類が出ないのでチョットさびしい感じがします、仕方のないことですが。

特に私のような大学人、科学者同士の付き合いから生まれる信頼関係は、政府や企業とは違った、利害関係のない関係から、新しいプロジェクトを始められる利点があります。

America’s CupはOracleが勝って、まだ勝負がつかないところでの帰国となりました。

帰国の翌日のレースでは、Oracle Team USAが1歩も後へ引けないところから大逆転劇を演じました。

沖縄から -2

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8月10日(土)、再度沖縄へ。宮城征四郎先生の始めた、これからの医療に対応する、ある意味では「最先端」を行っているともいえる「群星(ムリブシと読みます)臨床研修プログラム」の10周年記念のお祝いです。私もご挨拶をさせていただきました。10年前、このプログラム発足の時には講演をさせていただきました。

ここからは、その先輩の県立中部病院の時代から、臨床研修医のOB/OGのかなりの方たちが米国で臨床研修を受け、日本でも、世界でも、グローバル時代にふさわしい活躍をしています。

この10年、医療の現場に対応する医師の能力のニーズはかなり変化してきていると思います。ACP日本支部12)の開設、New York Beth Israel病院の臨床研修プログラムのOB/OGたちなど、世界に通用する臨床医の活躍は目覚ましいものがあります。

私は、挨拶でこのような臨床研修を受けた人たちが、後輩に優れた教育を伝えていく好循環“Virtuous Cycle”を生んでいくことに触れ、ちょうど沖縄に来ていた私のUCLA時代のフェローだったDr Harry Wardをみなさんに紹介しました。これも好循環の一例です。

11日の午後はBirdLife Internationalの市田さんに案内していただきながら、沖縄の北部へ。沖縄の蝶(註1)の観察ができる「秘密の場所」へ連れていっていただき、ヤンバルクイナを見に行きました。今年、道路で車にぶつかって死んだヤンバルクイナは今日現在で28羽。以前は、年に10羽程度だったそうです。

脚注: 写真に出てくる順番に 1)コノハチョウ(表 オモテ) Orange Oakleaf、必ず下を向いて止まる、沖縄以南のアジアに分布、コノハチョウ(裏 ウラ) 枯れ葉に似せている; 2)ルリタテハ Blue Admiral、翅の両脇にブルーのライン; 3)ツマベニチョウ Great Orange Tip、白い大きなチョウ、前翅の先端がオレンジ色、鹿児島以南のアジアに分布。

3日目の12日は、OISTで、この全く新しい研究大学院の将来計画を皆さんと考える集まりに参加しました。丸一日、いろいろな課題について議論が続きます。

これが日本の研究制度の変革に役立つことを祈っています。

Nature Café 「変われるか、ニッポン?」

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このブログでも案内していましたが、科学誌としてよく知られたNatureで、「Nature Café」という企画をしています。

今回は第12回で、沖縄科学技術大学院大学(OIST)との企画。日本ではどちらかといえば「Crazy Ones、変人」らしい科学者のパネルを企画しました。タイトルが「変われるか、ニッポン?~変化を迫られる大学、研究機関~」というタイトルです。

場所はSONY CSL「天才、異人」1)を生み出してきた小さな研究所です。

パネルは、この研究所の所長の北野宏明さん1)、東大で天文学と数学のコラボを試みる機構のリーダーをしている村山斉さん(たくさんのビデオがあります)、OIST の杉山(矢崎)陽子さん、そして私です。司会は毎日新聞の元村有希子さん

大部分が学生さん、いいね。パネルの皆さんが10分ずつ、元気のよい「変な話」をして、そこからパネル。そこへ、MIT Media Lab 所長のJoi Itoさん(1)が参入してくるサプライズ。

参加の若者たちと、大いに、大いに盛り上がった夕べでした。

刺激的で、よかった。

“Bula”、Fijiから

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Manabaに参加して翌日の7月6日、羽田を出発、Hong Kong経由で翌日にFijiのNadiへ。そこからさらに乗り継いで首都Suvaに来ました。

Pacific Science AssociationInter-Congress1)に参加です。

どこでもまずは‘Bula’。「こんにちわ」のように皆の使う挨拶です。

この学会は1920年に発足し、私も2003年からかなり関わることになり、いろいろ仕事をさせてもらいました。このサイトでは沖縄1234、吉田松陰の秘話も出てきます)、そして2011年の大震災の後のKuala Lumpurでの活動があります。

今回の会場はThe University of The South Pacificで、大勢の学生さんたちがVolunteersとして運営に関わっていて、なかなか素敵な雰囲気です。ここで教鞭をとっておられる日本の先生たちにもお会いしました。

翌日の開会式典にはRatu Epeli Nailatikau大統領もご出席、力強いスピーチをされました。開会式では、わたし、そして次にProf Nordin Hasan, Director of Asia Pacific Regional Office of ICSUが基調講演をしました。ご当地の大嶋英一大使も出席されました。

私を含めた何人かがテレビのインタビューを受け、夕方のニュースで取り上げられたということでした。翌日の新聞でもかなり取り上げられていました。

2日目、3日目は分科会を中心にしていろいろな活動がありました。私は、3時間ほどは観光、USP Vice-Chancellor and President Chandraさんとの夕食、また大嶋大使から昼食のお招きを受け、大使館の方々、ご当地で活躍している日本の方々の活動などについてお話を伺いました。UNDP職員として、Pakistan、Sudan、Fujiと活躍してこられた日本の女性にもお会いできました。

ここの日本大使公邸は20年ほど前に購入したそうですが、Fijiの首都Suvaでも一等地にあり、素晴らしい眺めです。

Fijiは歴史的に英国領、インドとの関係、最近では中国、韓国の活動も顕著です。マグロ取りの中国の漁船が何艘も来ています。日本の活動は現地でも知られているのですが、ここでもあまり日本人の姿が見えない、ということのようです。

大使のご苦労はこの辺にもあるようです。