東大の医学教育「改革」はどこへ?イヌイ教授の思い

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世界の動きに比べると、日本の高等教育の「改革」は、医学教育を含めてなかなか進まないように感じられます。

1980年ごろから、生命科学の革命的な変化を受けて、欧米ではいくつもの大学で医学教育の大きな改革が進み始めました。 McMaster大学の教育、さらにはHarvard大学のNew Pathwayなどがその例です。

日本の大学では、そのような実情はあまり理解されないようでしたが、いろいろな「改革」の名前で制度の変革が国の制度として行われました。1990年代に入ると大学院大学の導入、大学大綱の「改革」などが、さらに独立法人化への動きがありましたが、今になって高等教育の流れの何かが、本質的に変わってきたのでしょうか?

私は、1983~1996年には東京大学に在籍していたので、いろいろ提案などを試みたのですが、「総論賛成、各論反対」はいつものことでした。医療をかこむ社会の環境も様変わり始めていました。1996年に行った最終講義、また内科学会の講演でも述べた「5つのM」で表わされる社会の変化です。

その試みの一つに、Harvard大学との交渉でNew Pathwayを実際に学生さんたちに体験させるというプログラムがあります。私が東大から東海大学へ移る一年前、1995年に始めたのです。資金は自分で3年分を集めました。日本の学生さん8名、Harvard大学医学部からは学生6名と教員2名が、春の終わりごろ、1週間ほど東大に来るのです。東大の学生は、秋にHarvard大学を1週間訪問します。

当時の記録や報告を見ると、双方の学生さんたち、特に東大の学生さんたちにインパクトのある良い体験であったことがわかります。

2年目の1996年に参加したHarvardの先生がトマス・イヌイさんでした。イヌイさんは日系3世で、米国での医学教育の先駆者の一人でもあります。

その後、東大でも医学教育改革という名目の動きはあり、その一つとしてイヌイさんが3ヵ月招かれて、真剣に視察、懇談などを繰り返した上で、改革に対するがっちりとした内容の濃い提案書を提出しました。15年前のことです。

その後の経過を見ていると、その提案が生かされ、実行されているようでもないのです。そこでこの6月、イヌイさんが米国内科学会の日本支部会に参加された機会に東大にお招きし、「15年後の東大の医学教育」について、イヌイさんの講演とパネルが開催されました。私もパネルにお招きをうけました。(当日の報告はこちら

予想どおりというか、参加の人は少なくて25人ほど。現役教授では、ともにHarvard大学のSchool of Public HealthでPh.D.を取得されている(これは結構大変なのです…)公衆衛生分野の橋本・渋谷の両教授だけのようでした。

イヌイさんの講演のタイトルは「Curriculum Stagnation at Todai School of Medicine – A Sober Analysis」、日本語では「東大医学部教育の停滞 – 思い込みのない冷静な現状の評価」です。

学部長をはじめとした協力を得て、あれだけ力を注いだ提言がほとんど生かされて、実行されてるわけでもないこと、そして世界はどんどん変わるっているのだよ、という暖かい、しかも心からの懸念の講演でした。

日本の高等教育機関の現状については、変わる世界の大学、そして台頭する多くのアジアの大学のありようを見るとき、私もその懸念を共有するのです。

京都、米国内科学会日本支部の年次会へ再び

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例年のことですが、今年も米国内科学会日本支部の年次総会12)に参加しました。

今年も、盛りだくさんの活気にあふれた企画1)でした。米国内科学会会長も毎年参加されますが、今年もDr Weyne Rileyが参加、私との司会のセッションでは、意気投合して、学生さんや研修医のプレゼン、表彰など、一緒に楽しみました。

今年は、聖マリアンナ大学の柴垣さんをリーダーとした若い人たちが、企画からいろいろな活動に参加してくれたので、とても活気がありました。

旧友のイヌイさんも参加してくれました。この後、東大の医学教育センターでの講演会があるのです。それにも私は参加の予定です。

彼は、私が東海大学に就任する前日の1996年6月30日の夕方に、一緒に東海大学医学部へ行ってくれ、これからの医学教育について熱く語ってくれた人です。

成蹊学園の3日間

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私は成蹊中・高校を卒業しました。多くの人にとって、この時期こそが懐かしい母校というところですね。

今までも、成蹊学園の理事などをしていたのですが、今年から「理事長・理事会へのアドバイサー」の役を務めることになりました。

このメンバーをどうするのかいろいろ考えた挙句、MITのShigeru Miyagawa 教授渋沢健さんにお願いしました。お二人とも日米で教育を受け、日英語に堪能なバイリンガル、教育にとても熱心な方たちです。

この3人で、まずは成蹊のキャンパスを訪問して、執行部の方たちとお会いすることが、まずは大事なご挨拶です。みなさんのご都合を合わせるのに2、3か月かかってしまい、結局、5月26日(木)の午後ということになりました。

学園長、学長、中高校長、小学校長と各1時間、またキャンパスの案内をしていただきました。図書館、小学校は、ともに成蹊のOBでもある、あの坂茂さん1)の設計によるもので、素晴らしいものです。

学校は本当に大変です。こちらも、なんとか出来るだけのことをしようと、活動を始めます。

翌日の午後は、都内で成蹊学園の理事会と評議員会。

その翌日の土曜の午後は、去年に続いて国際教育部が主催の、中高校生とご家族を対象にした「外へ出てみよう」企画です。今年のタイトルは『私の留学 ‐ 黒川清さんをお迎えして ‐』で、OB/OGの永井くん、宮崎さんが参加、素晴らしい自分たちの話をしてくれました。そのあと私も参加したパネル、またAFSの説明、そしてレセプション。

若者の将来へ、学校は何ができるのか、ですね。

皆さん、ご家族も参加して楽しい土曜のひと時を過ごしました。亀嶋学園長、跡部校長先生、国際教育部主任の桂先生、中高事務室、またSt Paul’s校に通う島村君や今秋派遣される阿部さんをはじめとする関係者の皆さんのお骨折りです。去年に引き続き、ご支援ありがとうございました。

UCLAへ再び


オスロからパリ経由で羽田に到着。

翌朝は早朝から沖縄へ、沖縄科学技術大学院大学の理事会に向かいました。この素敵な新しい、完全に世界にオープンな新しい研究大学院です。

しかし、このような前例のない計画にはいろいろと難しい課題があります。しかし、日本の「開国」には、このくらいのことをしないとなかなか進まないのも現実でしょう。生みの苦しみはいくつもありますが、みなさんのご理解と応援をいただきたいと思っています。

理事会の3日目を終わり、最終便で羽田に戻り、夜中に帰宅。

翌日は、一日中予定でいっぱいでした。久しぶりに元在日ノルウェー大使だったWalther氏の訪問などもありました。東京に24時間滞在、夜中の羽田出発の便でLAへ向かいました。

UCLAでは、去年お亡くなりになった旧友Dr. Terasakiの名前が付いた“Teriyaki Center for Japanese Studies”の主宰する「日本と移民政策」のフォーラム、翌日はこのCenterのAdvisary会議です。テラサキさんのご子息(医師です)もこの会議のメンバーとなりました。

快晴のロサンゼルスと旧友たち、時間の空いたところではキャンパスを歩いたり、また新しい友人にもお会いすることができました。キャンパスは卒業式の準備ができています。PGAツアーも開催される名門リヴィエラ・カントリー・クラブにも、メンバーさんとちょっとボールを打ちに。気持ちがいいですね。

22日(日)、Los Angeles空港を夜に出発、翌朝、早朝月曜日の5時に羽田に到着。この日は、久しぶりにゆっくり休みました。

5月8日(日)に成田からアムステルダムへ、さらに極寒のノルウェーへ。ちょっと東京を経由しながら、沖縄、ロスを経由して、23日(月)に帰国。変則的な長旅でした。

北緯78度のノルウェー領へ

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アムステルダムでの蘭日貿易協会の方たちとの夕食の後、スキポール空港を出発。90分ほどでオスロに到着し、ここで一泊。翌朝、140人ほどを乗せたチャーター機で北へ約3時間ほど、今回の目的のLongyearbyenへ到着しました。北緯78度に位置します。

この小さな町はSvalbard諸島の中心であるSpitzbergen島にあり、ノルウェー領です。その歴史からも、ノルウェー、ロシア、米国などの参加もある統治構造になっているようです。最近になって、世界の課題の一つでのある北極への足掛かりの一つですね。

この会はAurora Borealis Foundation1)主催の集まりです。Tallberg会議のBo Eckman氏が中心になって企画したようです。

2013年のことですが、福島原発事故の国会事故調の委員長をした関係で、北欧の主要電力会社のVattenhall社のお招きを受けてストックホルムを訪問した時に、このTallberg会議に参加しました。

今回の会議では日本からはソニーの所さんも参加されていて、私もちょっとホッとしました。台湾メディア出身のChristopher ChuangさんとEckmanさんの共同主催の形で、中国からの参加者が多かったのですが、プログラム、話の内容からいっても、かなりリベラルな発言の方が多い印象でした。数人で行われたブレストなどもなかなか良かったです。

このブレストのメンバーで、グロ-バルヘルスで活躍しているちょっと変わった経歴のDr. Eric Rasmussenと知り合いになりました。いろいろと私の活動と重なるところも多く、これは特に有意義な議論の時間でした。

3日目は、いくつかオプションがあったのですが、船で片道約2時間半弱のBerentsburgへ行きました。ここでもなかなか良い時間を過ごすことができました。

中国人の方で、とても変わった帽子をかぶったユニ-クな男性がいました。どこかで見た人だなと思っていたのですが、あちらもそのように思っていたようです。

著名なデザイナーの方で、去年の12月にノーベル賞の授賞式に参加した時に、会場やホテルで何度も見かけたので、お互いに「おや?」と思ったのですね。大村先生と一緒に受賞した中国のYouYu Tuさんのスタイリストだったのです。イケメンのお弟子さんと一緒で、またお会いする機会があるのを楽しみにしたいです。

帰りは小雪の降る中、空港近くにあるGlobal Seed Vaultに立ちよりました。チャーター便でしたが、多くの方たちがOsloに滞在するようで、遅れるのです。私はOslo空港から、ぎりぎり間に合って、パリ経由で羽田へ向かいました。

荷物はOslo空港に置き去りになりましたが、3日後に東京に着きました。

アムステルダムへ、認知症の会議

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天気に恵まれたゴールデンウィークが明けて早々、アムステルダムへ向かいました。

今年はオランダがEUの主催国で、これはオランダの認知症への取り組みを紹介しつつ、広く共有したいという趣旨です。私は、2013年の英国のG8サミットで発足した世界認知症委員会(World Dementia Council- WDC)のメンバ-としてお招きを受けて以来、この活動をしています。このブログでも何度か報告しているところです。

このWDCは、3ヵ月前のロンドンの会議で、英国政府から独立した、よりグローバルな新しい委員会として出発し、私もそのメンバ-として参加したのです。

この新しいWDCの委員長のYves Joanetteさん、副委員長のRaj Longさんたちとも3ヵ月ぶりにお会いし、英国保健省から出向している事務方の活動もあって移行もスムーズのようで、熱心にこの委員会を進めています。

英国では、認知症は世界の大きな問題の一つとして、これをG8サミットで取り上げ、新たに約100億円の予算を計上し、さらに関連団体などからも約100億円が集まっています。EUとの問題、国内政治問題等々抱えながら、その政治と統治、外交など、また大学、科学研究なども、その内蔵されたダイナミズムには、いつも感心させられます。

去年の6月に、ハーグで行われた会議に参加した時以来のオランダ訪問となります。その間にも、オランダの保健省ナンバー2のMartin van Rijnさんが来日された時も、東京のオランダ大使館で行われたセミナーにご一緒しました。

今回の会場はEU会館です。さすがにオランダですね。会場の設定も派手さはないですがプログラム自体はよく考えられていて、司会進行もそつなく進み、内容がとても充実していました。Martin van Rijnさんの講演に始まり、国会議員(Marijke Vosさん。写真の赤いワンピースの方です)の素敵な司会・進行でいくつかのパネルが進みました。なかなか勉強になる2日でした。

日本は5月の伊勢志摩G7サミットのホストですので、そこで認知症がどう取り扱われるのかよく聞かれましたが、どうでしょうか。関係者のいろいろな活動はありますが。

オランダはチューリップの花盛りです。会場のすぐそばにある、海洋国家であった伝統を象徴する海洋博物館を、しばし訪れました。一度は訪れる価値があるところです。

2日目の夕方は、蘭日貿易連盟の方たちが夕食に誘ってくださいました。この事務局長さん、そして参加したゲストの女医さんのそれぞれと、とんでもない昔の共通の友人、そして出会いがあったことがわかり、とても楽しいひと時を過ごしました。

2泊3日の滞在後、帰りのスキポール空港で、クジラと複数の人たちの感動的な写真が、何かのコンテストの一等賞ということで掲載されていたのでちょっと一枚、お見せします。

ここからオスロへと向かいました。

グローバルヘルス関係会議の一週間

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4月に入ると、5月のG7サミットもあって、そのアジェンダ関係の会議や動きが活発です。G7(はじめはG6)サミットが始まったのは1975年で、1979年の日本がホスト国の時に初めて「Health」というキーワードが提示されたのです

その後も、日本は2000年の沖縄サミットで「グローバルファンド」のコンセプトを提案し、2008年の洞爺湖では「保健政策強化こそが人間の安全保障」を提示した歴史的背景があります。

つまり、グローバル時代になって、昨今、「グローバルヘルス」が世界の大事なアジェンダの「キーワード」になってきていることを、日本は先取りしているような形にもなっているのです。

4月18日(月)にはワシントンのCSISとの共催で、私が主宰しているHGPIがAntimicrobial Resistant(AMR)の問題にフォーカスした会議を開催しました。この詳細は今後CSISのサイトにも出てくることでしょう。この会議はとても内容が濃いもので、議論も的確で、参加者から極めて高い評価を受けたように思います。

19日(火)は英国大使館で、エリザベス女王陛下90歳の誕生日をお祝いする園遊会。Hitchins大使のいつもながらの素晴らしいスピーチに皆さんが感心していました。G7サミットへのアジェンダや認知症などを担当している一等書記官としばらく意見交換の時間を持ちました。

20日(水)の朝は、英国の某シンクタンクのヘッドと会食。東シナ海の状況など、なかなか聞けない話を聞くことができました。来月のG7サミットでは、英・ドイツなど、国内で大問題を抱えているので、日本のアジェンダセッティングはなかなか難しいという点で、私は意見交換しました。いまやG7国のGDPは、世界全体のGDPの50%を切っていますし、世界のアジェンダでもっと大事なのは、今年のG20ホストの中国の動きでしょう。

21日(木)はGlobal Fundの日本の貢献についての超党派の朝食懇談会。自民党は逢沢一郎議員、民進党は古川元久議員です。駐英大使就任直前の鶴岡さんも出席で、いつものことですが、かなり「厳しい」発言をされました。彼には2008年のG8サミットで大変お世話になりました。

22日(金)は日経の主宰する第3回「アジア感染症会議」1)に参加。これには3年続けて参加していますが、最初は基調講演、そして去年と今年は最後のまとめをする機会をいただきました。さらに、今年はGAVIのCEO、Seth Berkeleyさんとの対談を、FTのAndrew Wardさんの司会でたのしく進めることができました。

GAVIの日本の貢献については、私は国債を使うことも考えることを提案しました。GAVIの資金の約20%が英国、ノルウェイなど9か国の国債になっているのです。

今年は、日本とG7サミット、そしてAMRの最近の話題が出ます。日本企業の素晴らしい技術の紹介がいくつもありました。しかし、これを「グローバルでビジネスを」という視点でみると、まだまだ思考が内向きのように感じます、惜しいことです。

でも、この2日間の会議で私どもの運営しているGHITファンドについて、国内外の方たちがコメントしてくださるのでうれしくなりました。これは、ゲイツ財団を組み込んだ全く新しい「Public – Private – Partnership」ですし、国内外の注目度が上がっているのはうれしいことです。

23日(土)はこの会議の2日目。武見敬三議員の格調高いスピーチ、そしてパネルなど。最後に私のまとめで終わりました。

こんな調子で、この1週間は、G7サミットとグローバルヘルスで過ぎていきました。

ところで、私が去年11月にトロント大学のMunk School of Global Affairsで講演をしましたが、そこには「G8/20」の検証をしているグループがあり、そこから今年のG7サミットへ提出する資料の中に、私のコメントも掲載される予定になっています。

いろいろと忙しい1週間でした。

トロントからドーハへ

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トロントからモントリオール経由でドーハへ。恒例のカタール財団の Annual Research Forum に参加しました。この第一回のフォーラムには、選考委員として参加したこともあるのです。

そこでは、慶応の湘南キャンパスSFC卒業生の関山さんが始めた、蜘蛛の糸を遺伝子工学的に作るというベンチャー「Spiber」の一行にお会いしました。彼は、慶応の生んだ俊英の一人、冨田勝さんのお弟子さんの一人です。Spiber は私が慶応の湘南キャンパスSFCで教えていた、2010年の研究発表会で注目していた会社です。このチームとは夕食の機会を持って、いろいろと意見交換ができました。

意欲ある若い人たちの行動には、いつも嬉しくてわくわくしますし、何かできることは何でもするよ、といった風になりますね。がんばれ Spiber 。

国際交流には、国家間のお付き合いは大事ですが、普段からの「人」と「人」とのお付き合いからの信頼関係が、とても大事な役割をしていることは、重要な視点です。

再びトロントへ

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コーネル大学からトロント経由で帰国しましたが、3日後には再びトロントへ来ました。

カナダと日本のイノベーションと、この二国間の協力課題をテーマにした議論です。お互いにあまり注目されていないという意見がいくつも出てきました。なぜでしょうね。基調講演は、BlackBerryの共同創業者Jim Balsillieさん。主賓のテーブルで隣どうしでしたので、いろいろと話が弾みました。

2007年、京都でのことですが、私はもう一人の共同創業者Mike Lazaridisさんの基調講演の司会をしたことがあるという話から始まり、2008年にようやく日本でもBlackBerryが個人顧客にも使えるようになって、私もすぐに使い始めたことなどを話しました。今回の彼の講演では「Freedom to Operate」というキーワードを強調していることなど、いろいろな話題がありました。門司大使もレセンションに参加されました。

ところで、この会議の主宰はCIGIという比較的新しいシンクタンクで、Balsillie School of International Affairsとともに、彼が創立した組織です。

私はカナダとはいろいろ交流もありますし、落ち着いていて、なかなか素晴らしい国と認識しています。大英帝国との歴史的背景を持ったオーストラリアとは、資源大国という点では似ていますが、かなりの違いがあります。これは寒い環境という背景もあるのかもしれません。

私は、日本とカナダの人口は「約4対1」、そして隣にはそれぞれの人口の約10倍もある巨大国がある、そして、隣国との歴史的な背景はあっても、それぞれの「良さと、弱さ」の組み合わせは、これからの世界で新しい可能性があると思っている、という点をコメントしながら、これからの世界を俯瞰した視点からの意見を話題にしました。

最後に、通商大臣 Minister of Trade のChristia Freelandさんが講演されました。ジャーナリストとしてのキャリアもすごいもので、さすがに質疑応答は素晴らしかったです。

ここで紹介するBalsillieさんや、Freelandさんのような方は、日本ではまずめったに出てこない。このような点は、カナダの強みだと思います。

3月11日、福島原発事故から5年、「規制の虜」を出版、そしてコーネル大学へ

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あの悲惨な東日本大震災と福島原発事故から5年の時が流れました。どの程度の復興が進んでいるのでしょうか?むずかしい問題ですね。

いくつかの原発が再稼働されていますが、すぐに事故とか、ちょっとしたことがいろいろ起こっているようです。

福島の原発事故も、この処理についてはこれから何十年もかかるでしょう。想像もできないような時間ですし、今でも、またその先にもいくつもの難問・難関があります。

この機会ですので、「憲政史上初めて」の国会による福島原発事故調査委員会の委員長を務めたものとして、「規制の虜:グループシンクが日本を滅ぼす」という著書を出版しました。書店でも、アマゾンでも購入できます。できるだけ多くの方に読んでいただけると幸甚です。日本の”将来”はいまのままでは厳しいと思います。

出版に先立って、日本記者クラブ外国人記者クラブで、記者会見を開催しました。これらはYouTubeでも見ることができます。

日本記者クラブでは、福島原発事故に関係した講演は今回で5回目なのですが、その都度のメッセージは、基本的に「変わる世界、変われるのか日本」でした。

その後すぐにIthaca(NY)にあるコーネル大学にいきました。ここのマリオ・アイナウディ国際関係研究センター(センタ―長は宮崎教授)による企画で、3月11日に合わせて、「原発事故から何を学んだのか」を議論しようという目的です。

議論の相手は、プリンストン大学のペロウ教授、ヴァージニア・ポリテクのシュミット教授1)です。こういう議論に参加するのは、いつも楽しいです。その後は、レセプション・ディナー。

翌日も日本からの学生、先生たちとの朝食。快晴の中、広いキャンパスを散歩し、夜は日本と中国からの二人のポスドクをディナーにお誘いして、いろいろと話を聞きました。

共通の話題は、日本からの学生も先生も、”数が少ない”ということでした。

世界は広いのです、若い人たち、もっともっとチャレンジしてください。世界のみんなが待っていますよ。