「言葉の力」、「リーダーの知力と知性、判断力と感性」

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今年5月にお会いしてから、Harvard Kennedy Schoolの栗原さんについて、いくつかここでご紹介しました。

それ以来、栗原さんが帰国する機会には、何とかお会いできるように努めています。何しろ話題は豊富だし、ものの考え方がグローバルであり、しかも歴史・哲学・文学など広い範囲でよく本を読んでいる。さらに「外から」日本を見ることができる、だから本質を理解することの出来る数少ない人材(人財)の一人です。私とは違った分野の視点がたくさん頂けるので、ついつい話が弾んでしまうのです。

先日こられときも、ついつい2時間ほど話し込んでしまいました。彼はCambridge Gazette という定期報告を書いていますが、今年の最終版にそのときのことを書いてくれているのです。「洞察力と言葉の力」 とでもいうものでしょうか。

それがまた意外な話の展開になっていて、栗原さんの交友関係、人脈、歴史観から、日本の「本当に優秀」な人たちがいる一方で、あいも変わらないアホな「秀才」が国を誤るなど、原典・文献を紹介しながら、「ものがたり」を展開しています。

今の「悲しい日本」の状況をつらつら見ていると、この100年、本質的に日本は何も変わっていない(というか、「変われない」というべきでしょうね、、)ことに気がつくはずです。栗原さんの読書量、「個人」としての交友関係などなど、本当に感心してしまいます。大きな全体を「一つのものがたり」にてしまう手法と引用など、重層的な広い知識というか、知的好奇心というか、思考過程というか、いつも感心してしまうのです。

それにしても、日本の「リーダー的ポスト」の人たちの発言は特におかしいですね。知識はあっても「ことの本質」をつかめない、だから発言が軽い、心を打たない、なんとも悲しくなるこのごろです。いつも紙に書いたものを読んでいる、相手を見つめて自分の意思も、思想も伝えられない。自信も信念もないのでしょう。歴史も知らない、勉強もしない(大学入試偏差値のための勉強はしたのでしょうけど、、)、政策から議論まで、知識はあっても実に底が浅いというべきでしょう。そんなことに自分では気がつきもしない、理解もしない、言い訳ばかりはすぐにする、「偉い人」たち。

栗原さんの伊藤博文の英語のところもいいですね。そして今のグローバル時代の日本の英語教育政策議論の、あいも変わらないうわべだけの薄っぺらさ。

最近では解像力の良いテレビが普及しているので、話をしているときの目つき、表情がよーく見えてしまいます。国会の質問も、大臣の発言も、高級官僚の発言も、大学の偉い先生の発言も、財界トップの発言も、ジャーナリスという人たちも、深い洞察と、心からの思いのある言葉を聞いたことがほとんどありません。1億総評論家、問題があれば他人事、といった感じですね。

国民も悲しいのでしょうが、変な番組ばかりのテレビ、記者クラブ発の、しかも大量に発行される新聞記事にも毒され、テレビの人たちの言葉(しかも日本語番組を聞いてばかりですし、、)は本当に悲しいですね。

言葉は知力、知性(知識ではないのですが、、)の指標です。他人の心の内部まではうかがい知ることはできませんからこそ、言葉から人の心の度量、深さ、思いなど、人柄、人物がわかってしまうのです。

栗原さんは、今の日本の多くの知識人にはかけている、知性と「こころ」をお持ちです、あまり顔には出しませんが。次回にまたいろいろ教えていただける、「知的バトル」が楽しみです。