Distinguished Achievement Award by the Tokyo American Club

→English

Tokyo American Club (TAC) からDistinguished Achievement Awardという名誉をいただきました。1995年に始まった賞だそうです。過去の受賞者リストを見ても、ここに加わると思うだけで、とても誇らしく、うれしいことです。

「iTOUCH」という月刊誌の1月号の表紙に私が出ていて、これは成田空港のラウンジなどにも置いてあるので何人かの方からメールをいただきました。私のインタビュー記事がそのpp. 23-27 に「The Protruding Nail」という題で掲載されています。わたしのCalifornia大学時代の仲間との古いちっぽけな写真も掲載されていてちょっと照れてしまいますね。

記事を読んでみると、だれが推薦してくれたのかわかりますね。素直にお礼です。

Bostonから帰国した翌日2月18日にTACでお祝いの会がありました。三菱商事の槙原稔相談役、Roos大使夫人、去年まで駐米日本大使だった藤崎大使ご夫妻(大使は所要で先に出られましたが)ほかの、GRIPSHGPIIMPACTJapanなどの多くの友人が集まってくれました。

授与式は私の紹介に始まり、私の短いスピーチがあり、そのあと40分ほどの和やかな意見交換がありました。

スピーチでは私は「まともな」日本人であること、日米の懸け橋になられた何人かの方、特に去年暮れに亡くなられたBeate Sirota Gordonさんについて触れました。ちょっと読んでいただけるとうれしいです。

いろいろとうれしいことが続きました。

 

AAAS授賞式

→English

14日の朝Parisを出発、Bostonへ向かいました。15日夜のAAASの授賞式、私はScientific Freedom and Responsibility賞受賞なので参加です。

ParisからJFKで乗り継ぎ。ラウンジで時間を過ごしていると、1月にお会いしたばかりのMIT Media Labの石井先生が「Got to JFK airport from Barcelona. 1 more jump to Boston」とつぶやいているではないですか。「Are we on the same plane – AA1790 to Boston?」とつぶやき返して10分もすると、私の前を石井さんが歩いているではないですか。面白いですね、しばらく歓談しました。

Bostonの空港からホテルまでは道がとても混んでいて、1時間以上かかりました。前の週末の大雪のせいもあるのでしょう。チェックインのあと友人と落ち会い、夕食へ。

翌日は、AAASの登録を済ませ、会場に行ってみると展示会場を入ったところに「Japan」ブースがあるので寄ってみました。RIKENWPIなどの精鋭プログラムが展示されていて、いろいろな方とお話ができました。ちょっと離れてOIST1)の展示ブースもあるではないですか。来年からは一緒に展示することも検討するようにお願いしました。

いろいろ会場を歩いていると、どのセッションへ行こうかずいぶん迷ってしまいます。特にPlenaryは選りすぐりなので、知的興奮も大きいし、視野も広がります。MITのSheryl Turkle教授(1)の「The Robotic Moment」は、科学技術の進歩と人間の生活の変化を、特に子供たちのこと、高齢社会のことなどについて、深く考えさせられる講演でした。彼女の著作、総説を少し読んでみたいと考えています。

AAASの授賞式では8つほどの賞があり、一人ひとりの受賞理由がDr Press会長から紹介され、AAAS CEOのDr Leschnerから受賞の「盾」を渡され、3~4分ほどの挨拶をするのです。私の挨拶は好評でした。このサイトでも紹介しているDr Bruce AlbertsEditor-in-Chief of ‘Science’)、Nina Fedroff(AAASの去年の会長で今年は理事長)(1)、Norman Neureiter1)の他に、日本からも何人かの友人が出席してくれました。

レセプションのあと、私の賞の選考の委員会の関係者たちと夕食のあと、日本の関係者の2次会へ移動しました。

Bostonは2泊の滞在でしたが、世界の科学者たち、科学ジャーナリストなど広い皆さんからの国会事故調の評価の高さに、国会事故調のチームへの感謝と福島の人たちへの思い、これからの福島原発事故の行方に、ますます不確実な世界の中で、日本の在り方と信頼が思われます。

翌朝5時に空港へ、7日間の世界一周の帰途に就きました。やれやれですが、Paris、Bostonともに充実した時間でした。

 

パリのOECD会議

→English

2月11日、パリへ向かいました。13、14日のOECD Knowledge Based Capital のパネルにお招きを受けたのです。1日早い出発ですが、いろいろな方のお招きを受けているので、この機会にと出かけました。

午後5時にホテルへチェックイン、夜はOECD吉川大使公邸でディナーです。前任の服部大使の時にも訪れたところです。

12日の午前はTable For Twoの現地の活動をしているお2人とOECDへ。そこからWANO会長のLaurent Strickerさんと昼食へ、フランス原子力安全委員会委員のPhilippe Jametさんとは12月にも東京でお会いしています。

夜はAHPの関係で10人ほどのパリのフランス財界、日本企業の方たちと、Dominique Bouchetでちょっとしゃれたフランス料理でした。ここでの話題は国会事故調のことから、いろいろ広い話題でした。AHPのことはほとんど話題になりませんでしたが、多彩な方たちですから、とても楽しかったです。

翌日はOECD会議です。私は始まりのパネル、英国 Willetts大臣とSwedenのLjung大臣、そしてUSのLandefeldさんもご一緒で、司会はOECDのWyckoffさんです。ついつい立ち上がって10分ほど。参加者は主として官庁や政策の方たちのようなので、今の世界が大変化を起こしているという産業革命以来の大変化なのではないか、というプレゼンをしました。スライドは2枚、MIT Media LabのJoi Ito所長と三菱総研の小宮山理事長のスライドを修飾したものをお見せし、コピーを配布しました。

何人もの日本からの出向でOECDで活躍している方たちともお会いしました。去年まで2年間ここで活躍していた原山優子さんも英国からの帰りとかで、この会議へ出席。久しぶりにお会いしました。

途中で抜けだして、フランスの放射能研究所(IRSN)へ。昼食を囲んでJacques Repussardさんと上級役員といろいろ議論しました。ここヘは去年の3月には国会事故調のメンバーの訪問もあったところです。オープンな意見交換はとても相互理解に訳に立つことです。

再びOECDへ戻り、最後の2つのパネルのあとレセプション、デイナーと続きホテルへ。ここでもいろいろな方とお話しする機会がありました。

何人もの方たちから、私の話はとてもよかった、といわれました。会議の始まりに、参加者の皆さんと大きくものを考える枠組みを提示したことがよかったのでしょうね。

明日の朝にはBostonへ向け出発です。

 

Africa開発会議へ向けたセミナーシリーズ、そして日本ODAの論文

→English

今年の6月、日本政府はTICAD5 (Tokyo International Conference on Africa 5 : アフリカ開発東京会議)を開催する予定です。5年前のTICAD4でも、私たちのHGPIはいろいろなかかわりを持つことができました12)。

私もこの10年ほどいろいろな形でAfricaとかかわりを持ってきました。このサイトで「Africa」でサーチするといろいろ出てきます。

TICAD5に向けた活動の1つとして、HGPIは国際交流センター(JCIE)1)との共催で、ここでもご案内しているように、5回シリーズのAfricaをテーマにしたセミナーを開催しています。いろいろな問題を抱えながら成長を始めているAfricaで日本はどう向き合っていくのか、といった広いテーマです。

その第1回は、JCIE新理事長の渋澤 健さんの司会で、HGPIの代表である私と、日本とAfricaをビジネスマンでつなぐ若者、佐藤重臣さんが話しました。

多くの若い方たちも集まってくれて、楽しくまた有意義な時間を持つことができました。

この様なシリーズが「グローバル世界の中のAfricaと日本」という視点と意識が、少しでも皆さんの中に広がっていくことが、日本の世界への貢献という視点からも大事なことと思います。

この1960年以後、日本はアジアの開発支援に大きく貢献してきました。この日本のODA政策についてのレビューについても最近論文をHGPIのDr 村上さんHarvard Asia Quarterlyに書きました。このような研究も、これからの日本の国際支政策を考えるうえで大事なことです。

この20年のグローバル時代では、どのような政策を打っていくべきか、広くみなさんとも考えていくことが大事なことです。多彩なビジネスの機会も大いに増えていくでしょう。

21世紀、世界の変化は先の意見えない不確実な時代へ向かっています。過去を振り返り、しっかり世界を見据え、世界から日本を見る感覚を持つことが大事です。

 

San FranciscoとStanford大学へ

→English

EDF環境問題団体があります。1967年設立ですからRachael Carsonの「沈黙の春」(1962年) 、Vietnam戦争などがあり、米国でも新しいムーヴメントが出てきた頃です。EDFは科学者と法律家が連携して、問題を政治、法律へと動かそうという動機からなのでしょう。私もそのころ(1969年)に渡米したので、当時の米国の社会的背景が少しは感じられる気がします。

その理事会に関連して「Science Day」というのがあり、この講演に来てほしいというので、これはお受けすることにしてSan Franciscoに来ました。今回のテーマが原子力ということで参加を要請したのでしょう。

2月4日の夕方、1日早く到着し、翌日Stanford大学のAPARCでセミナーをしました。一つには20年近く在籍していたUC San DiegoからStanfordに移ったばかりの経済学者の星 岳雄教授(1)にお会いする目的もあったのです。セミナーには青木昌彦先生のほか多くの方が来てくださり、90分のセミナーのあと2時間ほどの短い時間でしたがいろいろ歓談することができました。

翌日のEDFの集まりではRichard RichterJohn Ahearn (Three Mile Island原発事故の時 ‐ March, 1979 ‐ のNRC原子力規制委員会(NRC)委員の一人で、Kemenyレポート提出の2か月後にNRC委員長の重責を担った方です)などのこの分野でのそうそうたる演者たちですが、参加している方たちも環境問題の専門家などが多く、活発な議論が行われました。このような活発な議論のやり取りに結構な時間をとっている会議は楽しいです。
宿泊したところはGolden Gate Bridgeを降りてすぐのSausalitoにあるCavallo Point

いかにもCaliforniaらしい好天気の充実した3日でした。

 

ダボス -2

→English

 ダボス会議(World Economic Forum; WEF)には世界の各界のいろいろな方が集まります。この辺鄙な狭い町にこれだけの人たちが一時的にでも集まってくるのですから、その機会をつかまえて多くの政治や、ビジネスの裏の段取りがたくさんできるという利点は、関係者にとってはとても大きいのです。NHK飯田さんのニュース・インタビュー1)もダボスだからこそできるのです。飯田さん他の勉強も大変なものですが、出発前の、そして現地でのアポ入れ、時間や場所の確保、追っかけたり、裏方の苦労も並大抵ではありません。

ビジネスでも1社からトップ1人しか(秘書さんなどの同行の人も原則ナシ)会場には入れてくれないルールですから、会場ではなくホテルなどで次々といろいろな会合がセットされます。

25日(金)は朝食時間に日本と中国の方たち20人ほどで意見交換、政治家がおられなかったので忌憚のない意見が交わせるのが良いところです。そのあとでGlobal Agenda Councilの日本、中国、韓国の3つのChair(中国はChairの代理でした)で1時間ほど意見交換しました。

午後には、恒例ですが世界の化学企業の代表の方たちの会議に参加させていただき、いろいろ勉強できます。日本からは三菱化学、住友化学、テイジンなどが常連ですがすそ野が広がりつつあるので従来の化学からバイオにも話題が広がりつつあります。

27日(土)は、朝から「The Japan Growth Context」(1)。元英国駐日大使だったSir David Wrightさんの司会で経済産業省茂木大臣(茂木大臣も後で会場の中を一人で動いておられたとか聞きましたが…)、タケダの長谷川さん、三菱化学の小林さん、竹中平蔵さん、そして私、というパネルです。NHKのニュース報道のように安倍内閣への期待は大きいのですが、経済成長はどうするのか、がポイントですね。会場に来られたのは100人ほどでしょうか、80%ほどが日本の方ですが、いくつかの良い質問が出ました。私はといえば、ちょっと福島事故調の意味、あとは女性社会進出(WEForum2012の報告では日本は134か国のうち102位です)の遅れ、なんといっても多くの日本人の頭の中が鎖国状態ではないのかということです。いつも言っていることですが。

そこから米国の外交戦略のprivateな会へ。その後、あまりの天気の良さに誘われ、Parsenn のWeissfluhjochまでケーブルで上がってきました。みなさんスキーですね。しばらく休んで、下界へ降り、また会議場へと戻りました。

夜は、ソワレ。トマス・マンの「魔の山(Magic Mountain)」の舞台のサナトリウム変じて高級ホテル、Schatzalpへと登山電車で登ります。

Harvard Business Schoolの竹内教授ご夫妻とご一緒でしたが、Catastrophic Risksの司会をされたUniv Penn Wharton
SchoolのM. Useem教授が私をいろいろな方に紹介して下さるので、とても楽しい時間を過ごすことができました。

翌日は早起きして、バスでZurichへ、しかし2時間おくれて出発。翌日の午後3時ごろ成田につきました。