アフリカ支援の集まり、アニャンゴさん

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日本の企業、ゲイツ財団、そして日本政府が資金を出して、途上国の主要病気であるマラリア、結核、HIV/AIDS、さらにほかの主要な病気に貢献しようという企画が始まっています。Global Health Innovation Technology Fund1)です。私が代表理事をしています。

Malaria No More JapanHealth and Global Policy Institute、GHIT Fund の共催で、若い人たちを中心にキャンペーンイベントを開催しました。楽しく、しかもとても明るい雰囲気の集まりでした。

2年前、ナイロビでお会いした若いお医者さん、さらに杉下先生にもお会いしました。久しぶり、懐かしかったです。杉下先生は帰国されているのですが、ご家族はナイロビにいらっしゃるということです。

ニャティティというケニアの楽器は男性だけが演奏できるのだそうですが、その例外となったアニャンゴ(向山恵理子、ムコウヤマエリコ)さん(12)がこられて素敵な演奏と歌を聞かせてくれました。

日本の女性は強いですね。アフリカの音楽に魅せられて、一人でアフリカへ、そして世界へ。いろいろな苦労もあったでしょうが、女性で初めてこの楽器を演奏する許可を獲得したということです。

素敵な一晩でした。

Osloから、Kavli -2

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4日の午後、Oslo Concert Hall でのKavliの授賞式は国王の出席もあり、とても素晴らしいものでした。日本でも良く知られた俳優さんで、科学の理解への活動をしているAlan Aldaさん、地元のAse Klevelandさんの司会で進みます。しかも、若いいろいろなジャンルの芸術家を、途中にいれながらの進行です。

これもWeb(12)で見ることができます。とても良いテンポで進みました。一度、こんな式典を企画して見たいなあ、と思いました。

しかし、ステージにおられる国王とこれらの芸術家(クラシック、ジャズ、ラップなど歌ったりの他に、踊ったりもありますから、、、)の距離がとても近くなることがあり、日本ではとても考えられないような距離感でした。

全体として、特に若い人たちを励ます色彩が強いことに、この国の素晴らしい、何かを感じました。

夜は、Oslo City HallでNorway 政府主催の晩餐会に出席。ここでも国王も出席され、とても気楽にメインテーブルについておられます。ここでもいくつかの演奏や合唱などもとても素敵で、気取らず、楽しいものでした。

なにかこの国の頑固でも堅実で大人、しかし、なかなか気が利いているというか、何かがとても違うというお国柄を感じた4日間でした。

明日は朝早く出発して Bergen に行きます。はるばるここまできたのですからちょっと一足伸ばします。

 

新たな大チャレンジで2012年が始まる

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あけましておめでとうございます。

この1ヶ月、つまり去年の12月6日以来、このカラムの掲載がありませんでした。twitterも発信しませんでした。

ご存知かもしれませんが、降ってわいたように「国会による、独立した」、「この60年余,憲政史上、初の」といわれる、政府からも、国会からも独立した「福島原子力発電事故調査委員会」の法律が国会を通過し、私がその委員長に任命されたのです。10人の委員とともに、12月8日に衆参両院議長から、国会で辞令をいただきました。

ウェブ上で「ニュース」などで私の名前をサーチすると、この件についていろいろ (資料1)と見ることができます。

とんでもない役目をおおせつかったものです。JST理事長を退任したばかりの北澤宏一さんが委員長を勤める「民間の福島原発事故調」にも参加していましたが、これは辞任しました。

この委員会の難しさは、いずれ折々にお伝えするので感じ取れるかと思いますが、なんと言ってもこの委員会の10人の委員と、いかに委員会のミッションを共有し、調査・検討を進めていくのか。皆さん、それぞれお忙しい方たちですし、また、事務方スタッフも、進め方のルールも、こちらが決めていくのです。委員会で一応のルールが決まるまで、私も発信を遠慮していたということなのです。

何しろ「「憲政史上初」の重み」は、その民主制度上の意義ばかりでなく、「いままで行われたことがない」ところに、数多くの難しい要件があり、この委員会の運営自体が大チャレンジなのです。

早速18(日),19日(月)の両日、委員の皆さんと福島第一原発の事故現場(重装備です、、)をはじめ、原発近くの人の気配(ひとけ)のない大熊町と除染現場、翌日には仮設住宅と別の除染現場資料1)などを訪れて戻りました。

とんでもないサプライズで2011年は終わり、2012年が始まりました。

 

秋のパリ

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羽田を夜中に出発、秋のパリに朝6時に到着しました。L’Oreal -UNESCO Women In Scienceの最終選考会です。迎えの車でHotel Concorde Opera にチェックイン。季節のせいでしょうか、日本からの団体の観光の方々が結構おられます。素晴らしい秋晴れ、雲ひとつなく、気温は25,6度でしょうか。先週までとても寒かったそうです。

ランチは、ひさしぶりにお会いするUNESCO大使の木曽さんの公邸で。以前にも伺ったことのあるところです。Sorbonneの学長(37歳の若さで就任)でもあった数学者、今はUNESCOのGeorges Haddadさんも参加、このHaddadさん、とにかく話題に事欠かない、日本のこともよく知っていて、楽しい話に花が咲きました。

夜は、最近評判が高い「Kei」でAmerican Hospital of Parisの三村ご夫妻とデイナー。Keiさんこと小林圭さん 、キャリアがすごいですね。料理の味といい、すばらしいプレゼンです。さすがの評判だけのことはあります。パリにお出かけの時には、ぜひお寄りください。

翌日は2012年のL’Oreal受賞者の最終選考です。皆さんと昼食をはさんで7時間ほどの長丁場になりました。最終的には素晴らしい方々5人を選ぶことができて、とてもハッピー。こういう場所での議論はなかなか参考になります。

夜は恒例のコンサートへ。この秋シーズンのOrchestre Philharmonique de Radio Franceの音楽監督をしている韓国の人気指揮者Myung-WHun Chungさんの指揮でZoltan Kodaly, Samuel Barber (PianoはGarrick Ohlsson), Bela Bartokの3作品。Chungさんの指揮ぶりはいつもキビキビして、シャープで気持ちがいいですね。

コンサート終了後、10時からDrouantへ。午前1時すぎになってお開きになり、長い1日でした。

しかし、パリはいつ来ても素敵な街ですね。あまり太った人はいないし、道でもカフェでもタバコを吸っている人が多い、女性は年齢に関係なく、おしゃれ、というかシックな装いの人をよく見かけます。

来年の3月にL’Oreal-UNESCO賞の授賞式がありますので、また来る予定です。とても楽しみです。

 

熱い夏、街の行事、「おとなしい」日本人

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暑い夏が来ました。岩手、宮城の方たちは大変だと思います。住むところの確保、夏の衛生状態、食料の保存など、大きな問題があります。津波が来た3月には雪が降ったりしていましたが、時間の経つのは早いものです。

今回で見えたのはわたしたち日本の「強さ」と「弱さ」が、情報伝達の手法の発達で世界に広く知れ渡ったということでしょう。このサイトでも繰り返し指摘 (資料1)しているところです。

ところで七夕の時期を迎え熱い日々が続きます。私の住んでいる町でも、例年のコトですが七夕の時期に合わせて「リオ・カーニバル」、暑い夏にふさわしいパレードが開催されました。

とても暑い日曜日、出てみると道路の両側は一杯の人。多くの露店も出て狭いところがさらに暑い感じがします。

パレードが始まります。リオと同じような(規模ははるかに小さいですが、、)騒々しいぐらいの音楽、打楽器の音、着飾った男女が踊りながらのパレード、なかなかのものです。皆さん沿道から携帯のカメラでパチパチ。リオのように着飾った(といっても、身に着けるものは少ないですが、、)踊り子さんたちも沿道の子供達に手を振りながら、また一緒に写真を撮る人たちも大勢います。

私の友人の韓国の新聞記者もお子さんを連れてきていて、ばったり会いました。

夕方電話で話をしましたが、こう言われました。「日本の人たちはこんな明るいお祭りでも静かですね、声を出さないし。私はずいぶん「bonita」とか、掛け声をかけたのですけど。皆さん写真はとっているのですけど、、」と。

じつは、私もあまり感じなかったのですが、よその国の人たちからは奇妙に見えるでしょうね。パレードの人たちは、周りの人たちと一緒になって、お祭り気分を盛り立てようとしているのでしょうが、ここにも日本人の「周りに合わせようとしすぎる、目立ちたくない、、」という行動様式が出ているのでしょうね。

災害に遭われている岩手、宮城、福島の方達の「強さ」、「忍耐強さ」は、普段からの日本人の行動様式の一部に組み込まれている、それが今回の災害で海外の方達からは「stoic」として賞賛はされていますが、リーダーにとっては時には都合がいいように働いているともいえるでしょう。

「感情を出すより、押さえてしまう、周囲と合わせてしまう」傾向は確かに日本人には他の国の方達より大きいとも思います。でも、行き過ぎるのはよくないですね。

特にうれしい、楽しい感情はもっともっと出してもいいと思います。

今回のような大災害には、ストイックだけでは不十分なのです。しっかりしたリーダーシップが必要なのです。 

TED- 3: Virtual Choirと詩人のことば

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いくつかTEDから紹介していますが、コーラスと詩人の言葉、これもとても高い評価を受けました。

高い評価とは、終わったときの「Standing Ovation」の大体の%でわかります。はっきりわかります。

1つは「Virtual Choir」。話の途中でだんだんテンションが上がってきて、最後には「ええっ?」「ううーん」という感じでしょうか。今の時代だからこそ出来る素晴らしいコラボです。

とても楽しめます。

2つ目は、若い詩人Sara Keyさんのです。2つ目の詩が「Hiroshima」、ちょっと驚きました。レセプションのとき聞いたら日本人とのハーフということでした。素敵な詩人です。

楽しんでください。

悲しみをこえて、韓国から「歌」の贈り物

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今回の大惨事、本当になんと表現したらよいのか、そしてウェブ時代の新しい力をひしひしと感じる 2週間でした。

私の友人の出口さん、いつも素晴らしい記事をメルマガに書いてくれています。元はといえばジャーナリスト新聞記者ですから、取材と調査、文章はお手のもの。さすがプロです。この3年ほど前から韓国の近代医学史の件でもお世話になっています。

Twitterでも、このようなときには「歌」がいいという意見がいくつも飛び交っていました。テレビの報道があまりにも画一的であったこともあるでしょう。

今回の悲劇に韓国からの美しい歌とビデオがありました。すぐに出口さんに送ったところ歌詞の意味を、といわれました。韓国の友人にすぐに翻訳してもらいました。日本語訳のあるビデオもありました。出口さんの美しい文章と一緒に「その部分」お送りします。

ここからですが、

「■映像に涙、歌手のチョ・ソンモさんの歌が心に響く」 の一節です。

 

Table for Twoの年末Charity

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 Table for Two (TFT) を知っていますか? 

日本発の世界への素敵なアイデイア。「途上国、貧困地帯の飢餓」と「先進国の肥満」をつなげる。世界でもドンドン広がってきている、世界での知名度も上がってきている。

私も立ち上げの時から応援団 の一人として参加。

25日夜、青山でCharity Party。私も久しぶりに参加、TFTを引っ張る小暮さんにも、久しぶりに会いたいしね、、。

小暮さん、元気そう、でもご苦労も多い。そして元気な若者ばかりで、私など場違いな感じ。プレゼンも、グループ形式クイズも(私はルワンダ組に)、余興も、次々と参加者を飽きさせない工夫がいっぱい。

最後は「We are the World」 (資料1)で。プロが歌い、皆でうたう。

やはりこの歌の力はすごいものだ。

 

 

「GLOBE Live 2010」イヴェント

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朝日新聞には毎月2回月曜日の朝刊にはさまれて発行される「GLOBE」という8ページの特集があります。とてもしゃれていて、世界を見るすばらしい特集で、私も記事を書くようお招きを受けましたし、このサイトでも何回か紹介しています。(資料1

私の書いた記事は「なぜ東大からノーベル賞が出にくいかー 「4行教授」のぬるま湯の罪」 というものです。ここでは「4行教授」という造語が読者の話題を呼んだようで、たくさんの返事が編集室に届いたと聞いています。これは「人財を生かせ」という、私のこのサイトに繰り返し出てくる主要なテーマです。

特に「GLOBE」は、On-line でその全部を見ることができるのも素敵な点です。

10月17日の日曜日、この2周年を記念した「GLOBE LIVE 2010」 というイヴェントが東京で開催され(1周年のときは関西の西宮で開催したとのことです、、)、私もお招きを受けました。会場はいっぱいお客様でした。

このイヴェントはとても素敵なプログラムで、対談形式でパネルと合間合間に村松祟継さん (資料1)のピアノ、坂本美雨さんの歌を入れたものでした。対談パネルは私から始まり、映画監督等で多才な緒方 篤さん 、作曲家の藤倉 大さん (資料1)、山口ステイーヴさん (資料1)、秋山咲江さん (資料1)、渡辺博史さん  (先日も「7人のサムライ」の1人としてご紹介)という、私は別として、「すごい」リストです。皆さん、GLOBEに出ていますから、検索してください。司会はテレビ朝日の野村真季さんと朝日新聞GLOBE編集の方々です。

全体のプロデュースはテンポも良く、とても素敵でした、とても楽しめました。関係者の皆様、ありがとう、ご苦労様でした。

以下のいくつかのblogにも書いてありました。
1. http://legendokiki001.at.webry.info/201010/article_1.html 
2. http://changemylife.blog.so-net.ne.jp/2010-10-17

この「GLOBE LIVE 2010」、別途英語版On-lineが出るといいのですけど、期待していますが、、、。

 

Michael Jacksonと私の家族; Encinoの生活

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Michael Jackson (MJ)  が急死して、ちょうど1年が過ぎました。本当に残念なことです。20世紀の60年代末に「Jackson Five」のリードヴォーカルでデビュー、最初のシングルが続けて(I Want You Back, ABC, The Love You Save, I’ll Be There) ヒットチャートの#1になりました。

80年代初めに「Billie Jean, Beat It, Thriller」など、歌と踊りとヴィジュアルをあわせた時代を先取りするような作品を次々とだして、Pop Musicを根本的に変えた、稀有な天才です。「King of Pop」といわれるのも当然です。今はよく見られる歌、踊り、ヴィジュアルを組み合わせた「時代の新しい芸術」にしたといえます。しかも、彼の作品は今でも燦然と輝いています。

彼が急死する前、予定されていた最後の公演シリーズ「This Is It」を世界中が楽しみにしていたと思います。そのリハーサルのClipから作った「This Is It」 を見ると本当に彼の才能と、人となり、そして本物のプロ興行のスゴサ、厳しさを感じ取れます。何度見ても飽きないすばらしい作品です。リハーサルのclipからの編集ですから、彼自身が本当に歌っているのではないのがちょっとさびしいですが、もし彼が死んでいなかったらどんな公演、そして作品になっていただろうか、想像するだけでもとても残念です。私も彼の大ファンです。いくつかのヴィデオも持っています。

彼の死後1年間ですが、「This Is It」などからも彼の人柄がそこかしこに垣間見え、彼の人気はますます上がっているとの話も聞きます。DVDなどの売り上げは3,000万枚を超え、1,000億円近い売り上げだとか。すごいことです。

実は1977年の夏、私はUCLA に戻り、Encino というUCLAの横のFreeway 405 を北へ車で15分ほどのところ、Santa Monica Mountains の峠を超えてMulholland Drive (映画でも有名な道路です 資料1 )からSan Fernando Valley へ降りていく途中の町に家を買い換えて移りました。16465 Refugio Road、どんづまりCul de Sacの家です。見晴らしも、環境も、近所の方々もよい方ばかりでした。

その後、まもなくでしょうか、なんとMichael Jackson (MJ)が近くに引っ越してきました。4641 Havenhurst Avenue です。当時すでに有名でしたが、彼のキャリアでは、次への一歩を模索していたころですね。その後、1988年にEncinoから200kmほど西のSanta Maria に近いところ、Neverland  に移りましたが、1年前、彼が亡くなったときには、ここには彼のご両親が住んでいることになっていました。

ところで、その頃のことですがMichael Jacksonと私たちは時に会うことがあったのです。私の一家がよく行く近くのスーパーマーケットGelson (Havenhurst Avenue とVenture Blvdの交差点にある高級スーパーです)で時々会うのです。彼は1人でショッピングしていて、そのときには言葉を交わすのですが、とてもシャイで、素敵な若者でした、MJが19歳のころです。

私が日本に帰国したのは1983の10月。MJはすでに大スター、1982年のAlbum「Thriller」  のリリースです。このalbumにはThrillerのほかに「Beat It、Billie Jean」などが入っているのです。すごいアルバムです。そして、あのころは「Thriller」のヴィデオがテレビで盛んに流れていました。

私が渡米した1969年に始まり、1983年のMJ、そしてその後のMJ。20世紀を21世紀につなぐ、最高のEntertainerでした。

ところで、Google Maps(地図、Street Viewなど)はすごいもので、MJの家から北にHavenhurst Avenueを100mほど行くとGelsonが見れます。南へ400mほどでLanai Roadへ、400mでHavenhurst Driveを東へ、300mでBallina Driveへ、300mでBallina Canyon Roadへ、どんどん山へあがっていくのです. 200mで右にRefugio Roadをはいると5軒目で突き当たり。右側が私たちの住んでいた家です。様子はStreet Viewでも、航空地図でも見れますが、家の様子は、ここ(リンク)を見てください。その頃ですが、今はなくなられた作家の城山三郎さんが尋ねてくださり、私のことを書いてくださった小文に、この家の様子にちょっと触れておられます。

Michael Jacksonの1周忌の機会にこのポストにしました。