国会事故調 -3: 二本松へ

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28日は福島二本松にきました。ここは浪江町の方々と町役場も引っ越してきていて、国会事故調でもタウンミーテイングを開催したところです。

ここへの訪問は特別な理由があるのです。それは国会事故調の報告書の「はじめに」 (p. 5, 6)で、私が二本松出身の歴史学者、米国エール大学教授(米国で教授職に就いた初めての日本人)である朝河貫一の著になる「日本の禍機」を紹介したことです。これに対していくつかの反応があり、その一人が私の友人でもある二本松出身のセブン銀行の安斎会長で、この講演会となったのです。

国会事故調の調査統括の宇田さんのお家も二本松藩の武家です。二本松は戊辰戦争でひどい目にあっているのです。

少々早めに二本松へ、安斎さん、宇田さん、事故調広報担当の森さんと二本松市長にご挨拶。三保市長からいろいろお話を伺い、意見交換。そのあと安斎さんの生家のあたり、二本松城址、高村智恵子の生家、朝河貫一の生家の跡などを訪ねました。

夜7時から市民会館(ここで国会事故調のタウンミーテイングの一つを開催しました)で私と宇田さんとの講演会を開催して頂きました。バスでもこられた方々も多く(道が混むだろうと、あらかじめ市の方で多くのバスを手配してくださったようです)1200人の会場は立ち見の方もいるほどいっぱい、会場に入れない方には別の部屋でテレビで見ていただいたそうです。三保市長と安斎会長のご挨拶が10分、そこから私と宇田さんの話が始まりました。皆さんとても熱心に聞いてくださり、たくさんの質問もあり、予定の時間を超えて2時間弱の熱い講演会となりました。

夜は、近くの岳(だけ)温泉のあづま館へ。ここは宇田さんのご親戚ということで、講演会のことと二本松とみんなの不思議な縁とでも、さらに話が盛り上がり、充実した一日でした。

翌日に知ったことですが、この講演会はネットで見れるのです。サイトはここです。

こんなにも開かれた時代なのです。

 

国会事故調査委員会 -2

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8月23日、国会事故調査委員会の報告書を提出してほぼ6週間、私は「元委員長」として、福島原発事故で被災されている12市町村の首長さんを訪ねています。お見舞いと調査へのご協力へのお礼のご挨拶です。皆さん、本当にご苦労されています。

今回は最終回で、2人のスタッフと出かけ郡山駅で蜂須賀(元)委員と合流、蜂須賀さんの車で1時間ほど、川内村の役場へ遠藤村長をたずねました。

そこからまた車で約2時間、大熊町の役場が避難している会津若松へ向かいます。途中で高速道路を降りてご当地のうどんの昼食、猪苗代湖を左に眺め、蕎麦の花の咲く広い畑などを眺めながら会津若松へ到着しました。

蜂須賀さんたちの避難している仮設住宅を訪ねてから大熊町役場へ、渡辺町長さんを訪問しました。とてもとても暑い日でしたが、仮の役場は冷房もなく、皆さん扇風機の中で忙しく働いておられます。皆さんとも何枚か写真を。

日常の生活基盤を瞬時に破壊されたまま、まだ先の見えない多くの方々を抱える首長さんたちと役場の方達のご苦労には、なんとも言えず辛い気持ちで胸がいっぱいになります。

私たちの報告書が、この状況を少しでも早く、良い方向へ向けることの役にたてば、と改めて思います。

東京駅に着いて、そのまま週刊朝日のネット上での国会事故調についてのセッションへ。70分ほどでしたが、有益なやり取りができたと思います。ぜひ見て、皆さんで考えてください。

福島の被災された12市町村の首長さん訪問をやっと終えて、何か気持ちがホッとしました。

 

国会による事故調査委員会報告書 -1

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ご存知のように、私は、今年になって、このblogでも、またtwitterでも、ほとんど発信しませんでした。

それは、今年の1月1日、2日、6日のこのblogで報告したように、去年の12月8日に発足した福島原子力発電所の事故調査委員会、通称「国会事故調」の委員長に任命されたからです。わたしのblogなどで、関係ないことでの私の意見でも誤解されるといけないと考えたからです。

「国会事故調」報告書は「ほぼ6か月」という7月5日に、国会の衆議院、参議院の両議長に提出。ここまでが委員会の役割でしたので、公的には翌日で任務を終了することになりました。

ウェブで「国会事故調」を調べていただくと、いろいろな報道がされています。提出の当日の夜、さらに翌朝にも、テレビなどメデイアに出たりしましたが、これからちょっと落ち着いて、いろいろなところでも、この報告書を委員のみなさんをはじめとして広く国民の皆さんと共有していくことが大事と思っています。

国会から依頼された私たちの提言を国会がどう受け取るのか、この辺りは急変する政治状況などもあり、いろいろ報道されているところですが、私たちは限られた時間の中で、ゼロからのチームつくりに始まり、本当にみんなががんばってくれました。

この報告書は国会に対する「7つの提言」としてまとめられています。これを実現するには国民と広くこの報告の「7つの提言」を共有し、皆さんの選ぶ国会議員の行動を応援していただくことが大事です。これが、3権分立の民主制度での立法府の機能強化になる一つのプロセスです。

最近、岩波書店の「世界」に掲載された私の 「民主主義国家の常識と責任:国会事故調は何を目指したのか」、大まかですが、私の考えが出ています。

原発事故で避難させられている福島の市町村の首長さんたちを訪問しています。皆さん、本当に大変です。

 

国会の福島原発事故調査委員会 -3

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この委員会について今年の初めから2報ポストしました。日本のメデイアの英語版でも書かれているので、海外の友人からもメールなどをいただいています。

ヨミウリ、キョウドウなどの報道です。ほかにもあるかと思いますが、、。

私もできるだけ英語での発信をしていくつもりです。

英語のOn-lineのメデイアでよく知られているHuffingtonpostでも、わたしの友人のDr Sunil Chakoさんの投稿が掲載されています。とてもうれしいです。

皆さんの応援は、私たちにとって大きな励みになります。

 

国会の福島原発事故調査委員会 -2

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元旦にこのサイトでお知らせしたように、去年12月8日に発令された「国会の福島原発事故調査委員会」(動画はこちら)。この8日には国会で衆参両院長からの辞令交付、さらに国会内で、この委員会の10人の委員の発言と、さらに各政党を代表する議員によるこの委員会への思いを述べるセッションがありました。

これらは国会内からライブで放映されました。当日の全委員の発言、及び国会議員からの申し入れの発言の動画は「衆議院TV」でご覧いただけるのです。私の発言は、委員の先頭としてと、また各党の代表のこの委員会への「申し入れ」の後、一番最後です。この日、12月8日は日本帝国海軍による真珠湾攻撃に始まる第2次世界大戦へ日本参戦の70周年の日でした。日本の大悲劇の始まりでした。この偶然の日の国会ですから、これと関連づけて福島原発事故についてちょっと触れました。

また、この委員会の立ち上げの中心人物、官房長官も務めた自民党の塩崎恭久議員は、何回かこの件についてblogで書いておられますし、12月の半ばにはその記録「「国会原発事故調査委員会」立法府からの挑戦状」を出版されました。

しかし、大変な1年の初めです。

 

新たな大チャレンジで2012年が始まる

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あけましておめでとうございます。

この1ヶ月、つまり去年の12月6日以来、このカラムの掲載がありませんでした。twitterも発信しませんでした。

ご存知かもしれませんが、降ってわいたように「国会による、独立した」、「この60年余,憲政史上、初の」といわれる、政府からも、国会からも独立した「福島原子力発電事故調査委員会」の法律が国会を通過し、私がその委員長に任命されたのです。10人の委員とともに、12月8日に衆参両院議長から、国会で辞令をいただきました。

ウェブ上で「ニュース」などで私の名前をサーチすると、この件についていろいろ (資料1)と見ることができます。

とんでもない役目をおおせつかったものです。JST理事長を退任したばかりの北澤宏一さんが委員長を勤める「民間の福島原発事故調」にも参加していましたが、これは辞任しました。

この委員会の難しさは、いずれ折々にお伝えするので感じ取れるかと思いますが、なんと言ってもこの委員会の10人の委員と、いかに委員会のミッションを共有し、調査・検討を進めていくのか。皆さん、それぞれお忙しい方たちですし、また、事務方スタッフも、進め方のルールも、こちらが決めていくのです。委員会で一応のルールが決まるまで、私も発信を遠慮していたということなのです。

何しろ「「憲政史上初」の重み」は、その民主制度上の意義ばかりでなく、「いままで行われたことがない」ところに、数多くの難しい要件があり、この委員会の運営自体が大チャレンジなのです。

早速18(日),19日(月)の両日、委員の皆さんと福島第一原発の事故現場(重装備です、、)をはじめ、原発近くの人の気配(ひとけ)のない大熊町と除染現場、翌日には仮設住宅と別の除染現場資料1)などを訪れて戻りました。

とんでもないサプライズで2011年は終わり、2012年が始まりました。