外科医 木村 健さん:日米の「違い」から学ぶ実践的改革

アイオワ大学で小児外科医として腕を振るってきた木村 健先生と久しぶりに対談の機会がありました。

日米では社会制度も医療制度も医師の教育や研修にも大きな違いがあります。実体験に基づく違いを知ることによって参考になる点を、そしてどのように日本の制度にあわせながら、この悲惨な「医療崩壊」の現状を変えていく参考になるのか、考えさせられるところも多いです。

木村先生は広島大学での「医学部付属病院」から「大学付属病院」への思い切った大学病院改革にも、お力添えされました。これも大いに参考になります。

「違い」の本質を身をもって体験から知ってこそ、実践的な“知恵”が出てくるのです。実体験のない“知識”は今の日本の「医療崩壊」のような修羅場にはあまり役に立たないのです。

この対談が医学界新聞に掲載されましたので紹介します。

 「Principleのない日本、“医療崩壊”の打開策とは」PDF

“できない理由”を言わないで、どうしたら“できるか”を考え、行動することこそが、責任ある立場の人たちの責務であり、リーダーなのです。今こそ、そのような人たちが本当に必要なのですけどね。

ゲイツ財団の「枠を外れた」Grand Challenges

→English

研究申請や研究論文の評価にピアレビューが大事であることは論を待ちません。しかし、「イノベーション」は私の言う「新しい社会的価値の創造」ですから、思いがけないアイデアや、「常識はずれ」「枠を外れた」「出る杭」から生まれることが多いのです。“By definition, peer review is not compatible with innovation”です。

ピアレビューは方法や考え方などから研究の質を保証するのに必須ですが、考え方が「時代の常識」の枠内にとどまるのは、その性質上、いたし方ないところです。

ゲイツ財団のグローバルヘルス分野での活動はつとに知られていますが、2年前から始めたのがGrand Challenges Explorationsです。財団の掲げるミッションに合う、大胆で、「枠を外れた」提案やアイデアを世界中から募集しているのです。提案を2ページに書いて申請し、採用されると1年で10万ドルの研究費がつきます。面白そうな成果が出てくるともっと大きな研究費で、研究継続の可能性があるのです。

びっくりするような面白いアイデア、研究が採用されています。日本からも3つ採用されています。採用されたものの中には、大胆すぎて競争率の高いことで知られるNIHのグラントで落ちている研究申請もあるそうです。

今回のラウンドの締め切りは5月29日。上に紹介したサイトを訪ねて、申請を考えてはいかがでしょうか?

これに似た競争的研究資金は数年前から英国などでも始まっています。今年からCanon財団でも始め、私もお手伝いしています。

でも、どうやって選ぶのでしょうか?ここに工夫の仕方があるのです。これもイノベーションです。

Elizabeth女王の誕生日

→English

英国大使館では、女王陛下の誕生日パーティーが毎年開催されます。これはどこの国の大使館でもあることですね。日本大使館では天皇誕生日に行うでしょう。

4月21日、そのパーティーに出かけてきました。ちょっと雨模様でしたが、素敵な庭でたくさんの友人達とちょっとしたひと時を過ごしました。

出された小さなパイには、いろいろな“具”を載せた新握りすし風“Sushi-Pie”。大使にも「あれはドウ?」と聞かれましたが、具によってはなかなかの味でした。

Eventspaceinstruction040

写真: 科学アタッシェChris Pookさんたちと

英国大使館は場所も、庭も、建物もとても立派なものです。先の対戦中は「鬼畜米英」などと言っていたぐらいの敵国だったのですが、どうなっていたのでしょうか?日本が掃除も含め、しっかり維持管理していたそうです。英国は感謝というか、感心というか、妙に感じたんじゃないでしょうか?

戦時中のロンドンではどうだったでしょうか?ドイツは敵国ですから、大使館はもちろん没収され、それ以来、The Royal Societyが使っています。そこの地下には当時のドイツ大使の愛犬の墓、というか愛犬が埋まっているんだそうです。

日本は始めからこの戦争は勝てると思っていなかったのか、当時の大英帝国とは最初の同盟国だったので、親しみがあったのでしょうかね。皇室の関係に配慮したのかもしれませんね。皇室も戦争したくなかったんじゃないでしょうか。

Human Rights Watch 東京事務所開設

→English

Human Rights Watchをご存知ですか?なかなかすごい活動をしています。先日ここの東京事務所が開設されました

土井香苗さんが少女時代に悲惨な場所を見聞し、何とかしないと、何かしたい、という長い間の思いが実現したものです。

この事務所開設の案内と資金集めも兼ねて、4月9日に素敵な会が開かれました。東京の調布にあるAmerican Schoolの学生さんによるコーラスに始まり、土井さん、Kenneth Rothさんの挨拶、ロシアがグルジアに侵攻したときに撮影された活動のフィルム。また、ミャンマーの政治犯として7年間余拘束されていたBo Kyi氏もGuest of Honorとして参加し、彼の生活、活動のフィルムも流されました。彼とは席が隣だったので、いろいろ話を聞くことができました。

このような個人から始まる、というか「草の根的活動」、「市民運動」、「NGO」といったものは、今後さらに広がっていくでしょう。これがグローバル社会の動き資料1) なのです。この流れを侮ったり、抵抗してはいけません。これがフラットな世界の本流になっていくでしょう。皆さん一人ひとりができる分だけ、土井さんを応援、支援していきましょう。

私の大変に尊敬する緒方貞子さんをはじめ、こういう活動は女性によるものが多いのですね、これも世界的な傾向です。

当日の会場の様子はここ

Gairdner賞、山中、森のお二人の受賞と素晴らしい先達たち

→English

顕著な学術研究に対する顕彰があります。医学生命科学分野でもいろいろな賞がありますが、この分野で最も権威があるものとしてはGairdner(ガーデナー)賞、Lasker(ラスカー)賞、そしてNobel賞というところかと思います。

Nobel賞は20世紀が始まったばかりの1901年から行われていて、広く知られています。いつも10月の初めに行われるNobel賞の発表はニュースをにぎわします。受賞者リストは19世紀末から20世紀の100年の科学の変遷と大進歩を表しているといってもいいでしょう。去年は自然科学分野で南部、小林、益川、下村さんの4人の日本人(「日本人」の定義についてはそれぞれで考えてください)が受賞して大いに話題になり、私たちに自信を与えてくれました。

Lasker賞というのは1945年から始まりました。臨床医学賞と基礎医学賞が主要な賞で、基礎医学では1982年の花房秀三郎、87年の利根川 進、89年の西塚泰美、98年の増井禎夫さんたちが受賞しています。臨床医学では2008年に遠藤 章さんが受賞しました。この方たちのうち、受賞対象が日本での成果が主だったのは西塚、遠藤先生のお二方だけです。

Gairdner賞は1959年からで、今年がちょうど50年目になります。今年は山中伸弥さんと森 和俊さんが受賞され、京都大学から2人の受賞者が出たことになります。山中さんは国内外でよく知られている「iPS」で、森さんの仕事は地味ですが素晴らしいものです。

4月10日の朝日新聞の記事にもあるように、今までのGairdner受賞者にはLasker賞を受賞した利根川、増井、西塚さんのほかに、石坂公成、照子ご夫妻と小川誠二さんがいます。受賞対象が日本での研究が主だったのは、西塚先生と今回のお二人です。

Lasker、Gairdner賞ともに、受賞者のうちからNobel賞の受賞者がどれだけ出るか、意識しているようでもあり、また、同じ分野でも3つの賞の受賞者が微妙に違った人選があるところもどんな議論がされたのか、推論してみるのもいいでしょう。特に2001年のNobel医学生理学賞になぜ増井さんが入っていないのか、Natureなどでちょっとした議論がありました。

Nobel医学生理学賞はまだ利根川さんだけしか受賞していませんが、これから出てくるだろうと楽しみにしています。

小川誠二先生は、人間の脳機能研究に広く使われている「fMRA」の原理を発見したかたで、125周年を迎えるScience誌(7月1日号)で、歴史上、科学の進歩に貢献した人たち約125人の中に入っている唯一の日本人なのです。

さまよう医療政策改革、「プリンシプル」のない日本の政策

医療崩壊とか医師の定員増といい、卒後臨床研修もご都合で後退し、この国の政策はどんな目的で、何をしようとしているのかさっぱり分かりませんね。皆さんもそう感じているのではありませんか?

皆さんが、それぞれいろいろな立場で、多様な意見をお持ちなのは当然です。しかし、政策というのは大きな流れとその背景を踏まえて、基本的な認識があり、その手段としてあるべきものです。手続きは「民主的なプロセス」のはずですが、わが国では必ずしもよく機能しているわけではありません。

最近の医療制度対策といわれるもののどこに問題があるのでしょうか?それをテーマにした木村健先生との対談記事「プリンシプルのない日本:"医療崩壊"の打開策とは」 が出ましたので、紹介します。

このブログでも繰り返し述べていることですが、日本の政策の多くは手段としての議論であり、いつの間にか、本来の大きな目標がどこかに行ってしまう。つまり、「原理、原則=プリンシプル」がない。あるいはいつの間にか「手段」が「目標」になってしまうのです。これは「外」から見るとよく見えるのですね(「岡目八目」とかね)。

以前もある書評でこのことについて触れましたね。

La Jollaから、Entrepreneurship会議

→English

Img_1588_2

Kauffman財団 は「Entrepreneurship」(「起業家精神」とか、「進取の気性」(梅田望夫:「ウェブ時代 5つの定理」)とでもいいましょうか、何も事業ビジネスのことだけではありませんから)にフォーカスした財団で、去年はGlobal Entrepreneurship Weekを世界に展開し、日本でも本田財団の協力を得て、私の所属する政策大学院大学と京都でいくつかのプログラムが開催しました

このKauffman財団とUCSD(University of California San Diego)の共催で、“What Industry Wants from Universities”というテーマで、米国、英国、日本、カナダの4カ国で2日間の会議が開催されました。各国から数名ずつ参加し(ホスト国の関係者もいるので、米国の参加者は当然多いですが)、政策を含めて議論しました。プログラムの内容もなかなかで、有意義な会でした。特に英国からの参加者の、ウィットに富む発言は会議の議論の進行を和ませました。このセンスは素晴らしいものです。

会議の内容については、いずれWeb等に出たところでお話しましょう。

日本からの参加者は、私の他に、GRIPSの角南さん東北大の原山さん東大先端研のKnellerさん、そしてWilliam Saitoさんの5名でした。これは珍しいメンバーですね。皆さん、ここ数年は日本で仕事をしていますが、海外で教育を受けたりキャリアを積んだ人たちばかりでした。

Img_1595_photo1

写真1: 日本からの参加仲間
このほかの写真はPicasaにUPしています。

気持ちの良い気候と素敵なキャンパス、そして楽しい仲間達というところですかね。何かすっかり気分が晴れやかになりました。会議が終わってから“Calit2”を案内してもらいました。土曜日で人は少なかったですが。

San DiegoはちょうどWBCの始まる直前でした(日本の優勝、素晴らしかったですね)。

しかし、やっぱりCaliforniaは明るい。素敵なところです。

タヒチ-4 (吉田松陰のこと)

→English

Highland_s

先日のブログ「タヒチ-3」で、灯台の入り口にあるプレートの写真を掲載しましたが、そこには以下の一文が記されています。

“ Robert Louis Stevenson、Tahiti 1888
‘Great were the feelings of emotion as I stood with mother by my side and we looked upon the edifice designed by my father when I was sixteen and worked in his office during the summer of 1866.’”

これを見たときに、「これだ!」と感じたのです。

Robert Louis Stevenson(1850-94) は「宝島」、「ジキル博士とハイド氏」などで知られる英国の作家ですが、両親、そしてお祖父さんも灯台を作るエンジニアの一家なのです。Robertは身体が弱く、家族の期待には応えられなかったのですが、文学に才能を発揮します。1874年、フランスで病気療養中、10歳年上の子連れの米国人女性と恋仲になります。病弱で死にそうになりながら1879年に渡米し、Californiaにやってきます。そして1880年に結婚するのです。

Robert Stevensonは1880~87年に家族とともに英国に帰りますが、父親の死とともに母親と家族を連れて米国へ戻り、翌1888年に太平洋に旅立つのです。ここTahitiのプレートは1888年、その年なのです。

彼は1894年暮れに太平洋の島で44歳で亡くなります。Wikipediaなどで彼のことを調べて見ると実に面白いです。人間の歴史がここにあります。

このプレートを見て「これだ!」と感じたのは何か。それは吉田松陰(1830-59)のことです。この松陰とStevensonの奇妙な関係をいつか紹介したいなと、実は何年も考えていたところだったのです。2007年5月の「天皇陛下のリンネ誕生300年のご講演」についても、いつ紹介しようかと随分考えました。

近代日本を立ち上げる大事な精神的きっかけを作った一人が吉田松陰です。彼の松下村塾は、明治維新にいたる多くの志士を生み出しました。この松陰のことを初めて書いたのが、実はこのStevensonなのです。それは1880年3月に「Yoshida-Torajiro」(吉田寅次郎とは松陰の通称)というタイトルで書かれていて(Cornhill Magazine 41)、1882年に「Familiar Studies of Men and Books」として一冊の本にまとめられて出版されています。

これは、松陰の死後20年目に英語で書かれています。では、誰が松陰の話をしたのでしょうか。その答えはStevensonのエッセイの初めに書かれています。「Taizo Masaki」です。

正木退蔵、東京工業大学(当時の名前は違いますが)の初代学長です。正木とStevensonの関係について触れているサイトはいくつもありますので、調べてみてください(参考: 123456) 。

また、“よしだみどり”さんの本で「日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝 烈々たる日本人―イギリスの文豪ステーヴンスンがなぜ?」(2000年)というものもあります。いろいろと調べてみて、この不思議な縁と、偉大な松陰のこと、そして“教育の本質”について考えてみてください。

混迷の今の日本に松陰はいずこに?

それにしても、Tahitiでこのご縁に出くわすとは思いませんでした。

「東大とノーベル賞」、荒野を目指さない若者たち

→English

このブログで繰り返し出てくるテーマに、「グローバル世界」と「教育・人材」があります。

グローバルな競争の時代に、グローバルな課題に取り組むためには、国家による科学技術への投資は大事です。しかし、これらを実践するのは、結局は一人ひとりの人間です。

安倍政権の時に私が座長として閣議決定をみた「イノベーション25」では、イノベーション、つまり「新しい社会的価値の創造」には、「人づくり」が最も重要で、「出る杭」が大事だと指摘しました。閣議決定の文書にもかかわらず、「出る杭」という言葉が繰り返し出てきます。

さて、昨年はノーベル賞の科学分野で4人の日本の研究者が受賞され、とても明るいニュースになりました。受賞者の皆さんの経歴を見るとお分かりのように、皆さん「出る杭」というか、「枠を外れて」おられますね。

昨年10月から、朝日新聞紙面で隔週月曜日に「GLOBE」という素敵な企画が始まりました。今年の3月18日号に「なぜ東大からノーベル賞が出にくいか」という一文を書きました。東大の出身で、東大で行った研究でノーベル賞を受賞されたのは、小柴先生だけなのです。

コラムを読まれた東大の先生方の中には、不愉快な思いをされる方もおられるとは思いますが、皆さんはいかがお考えですか。広い世界で他流試合をする、これは大事な原則・プリンシプルの問題なのです。

内にばかりこもっていては、せっかくの才能も、新種の「芽」を出し、「大樹」にはならないでしょう。もったいないことです。「井の中の蛙、大海を知らず」(知っているようで、知らないのです)。

タヒチ-3 (Captain Cook、Baunty号、Stevensonの灯台)

→English

20090324

写真1

Tahitiはゴーギャン(Paul Gauguin 1848-1903)がよく知られていますが、一方でCaptain Cook(1728-1779)も有名ですよね。

3度の大航海というCookの偉業は本当にすごいものです。彼は1769年にここTahitiに来ます。この時はRoyal Society王立協会の依頼で、“Transit of Venus across the Sun”(金星が太陽を横切る)の観察に来ているのです。

話はそれますが、映画などでおなじみかと思いますが、9年後の1788年に、Cookが上陸したこの場所に到着したのが戦艦Bounty号です。Bounty号上陸の記念碑(写真2)がここにあります。

Img_1521_photo1

写真2: Bounty号の上陸の碑

Cookたちが上陸したこの場所には灯台があるのですが(写真3~5)、100年後の1867年(明治元年)に有名なStevenson社(創設者 Robert Stevenson 1772-1850)によって建てられています。

Photo2

写真3: 灯台全景

Photo3

写真4: 灯台の前で

Photo4

写真5: 灯台の入り口

この灯台でとても面白いものを見つけました。それがトップの写真1で、これは写真5の左側に見えるものを拡大したものです。この「明治維新にかかわる、歴史の偶然ものがたり」は次回にしたいと思います。

同じ頃、つまり明治初期に日本で建てられた主な灯台Richard Brantonという方の設計です。彼はRobert Stevensonの弟子にあたります。