東大が変わる?東大の社会的責任

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最近のことですが、東京大学が秋卒を検討するというニュースがありました。

これは何を意味するのでしょうか?勿論、世界の多くの国の主流大学での入学・卒業に合わせるという意義があるでしょう。特に大学間の国際交流を推進する、国境を越えた大学途中での転校Transferを可能にする、とか、いろいろな意味合いがあります。

実はこのような試みは行政当局も全面的に容認したわけではないですが、セメスター制度の導入を可能にし、したがって秋卒(秋入学も)を可能にしていたのです。一部の大学では、一部の学生に秋卒(卒業式も、、)、秋入学を導入していましたが、これらの大学は日本社会に所詮は大きな影響を与えません。しかも、そのような大学での秋卒の学生はどのような就職状況になるでしょうか?

新卒の一括採用などという旧態依然とした大企業のドグマに対して、大学は大して抵抗できませんでした。せめて、内定の決まらない学生を1年間卒業延期して「新卒」というタイトルにするとかくらいです。このところ大学生でも(高卒は言わずもがな、、)就職難(中身は「就社」ですが、、)なのです。大学が大々的に秋卒検討など出来るわけがありません。

社会制度が「4月入学、3月卒業」で出来てきているので、国際化などと言っていても、所詮は出来ない相談なのです。大学と国際社会のミスマッチです。

その意味で、東大が秋卒の検討を始めることは、このグローバル化、日本社会と秋卒ミスマッチへのチャレンジともいえるのです。本当の理由は違うところから始まったのかも知れません。でも、結果としてはそのようなインパクトがあるのです。

この点を指摘している考察が、その「反骨精神」「若者への本物の気持ち」に私も感心して私もこの何年か影で応援 している城 繁幸さんから出ています。さすが城さんですね。鋭い考察です。

つまり、日本の大学とその制度、社会への変革の圧力を与えるには東大が始めることが大事なのです。同じことを他の大学が検討を始めてもニュースにもならない、だからメデイアも取り上げない、だから社会へのインパクトもほとんどないのです。

つまりは、グローバル世界への日本社会制度の適応は、それぞれが出来ることをする、しかもそれが従来の日本社会での「一番の権威」、大学であれは東大、が動かなければ、何も起こらないのです。これが「リーダー」と思われている機関の責任なのです。私が「東大総長機関説」などという言葉を講演などでも使っているのも、これが理由です。

医療制度改革(「健康制度改革」というべきですが、、)での大学病院の役割についても、同じ理屈で、拙著「大学病院革命」で提言しているところです。ほとんど話題になりませんが、、、。

さてどうなるか。日本改造の旗手になれるか、学の頂点、東京大学。