津田梅子の“Peeress’ School”

久しぶりです。このところ、出張でやたらと忙しいのです。何故かと考えてしまう程です。

8月17日のブログに書いた「津田梅子とTH Morganの1894年の論文を読む」で、津田梅子の所属の“Teacher in the Peeress’ School, Tokio, Japan”について何か教えてくださいとお願いしたところ、ありがたい事にちゃんと調べてくれた方がおられるのです。

それによりますと;

『“Peeress”は、「1.貴族婦人、2.(自らが爵位を持つ)有爵婦人」と訳され、Peer(貴族、華族)+essということでしょうか。津田塾大学ホームページ日本語版では、「塾創立まで」の中で、「1886年(明治19) 梅子、華族女学校教授となる」とあり、同英語版では、津田梅子が帰国後、“She accepted the position of lecturer at the Peeresses’ School”とあります。最後の“es”の有無でスペルは若干違いますが、以上から、黒川先生のサイトホームページにある“Peeress’ School”は、「華族女学校」のことだと考えられます。

津田梅子は最初の帰国後もこの学校で教えていましたので、その当時の事でしょうか。

さらに、「華族女学校」についてですが、学習院大学のホームページ日本語版には、明治18年9月(1885)に「華族女学校を創設する(四谷区尾張町)」、明治39年4月(1906)「華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女子部と改称する」等の沿革が記されています。学習院女子大学のホームページ英語版では、“September 1885, The Peeress’ School (Predecessor of the Girl’s Division of Gakushuin)was founded.”とあります。その後、学習院女子部は女子学習院となり、戦後、学習院と女子学習院が統合され、さらに創設された短期大学が学習院女子大学に変わっていったということのようなので、華族女学校がそのまま現在の学習院女子大学につながったわけではないようです。』

ありがとうございました。