「リスク」をとった若者たちの出会いの「場」

このブログでいろいろと“とんでもない”すごい人たちを紹介しています。白州次郎、蜂須賀正氏、津田梅子、朝河貫一、「Wedge」の記事(『リーダーに不可欠な歴史観、世界観、志』)、またダボス会議での報告でも世界のリーダー達の紹介をしています。医学でも、北里柴三郎、野口英世、高峰譲吉、高木兼寛等の話もよく講演等でしています。

このような“とんでもない”すごい人たちを紹介するのは、こんな人たちが今の豊かな日本にはあまり見あたらないからです。日露戦争からちょうど100年目の日本ですが、今になって当時の日本や東洋を囲む状況を考えると、これは極めて歴史的な結果が出るわけですが、太平洋戦争の前後までの経過を見てみると、「官僚」と「民僚」しかいない国になってしまったのでしょう。野中郁次郎他による『失敗の本質』(1991年、中央公論(新)社)にもいくつもの歴史的実例が書かれているにも関わらず、ようやく最近になって「失敗学」が認識されるなんて、いまさら何を言っているのかという気になりますね。M自動車、T電力、S印、XX銀行、みんな同じ構図です。

それにしても驚いたのは、5月4日のブログで森嶋通夫・ロンドン大学名誉教授著『なぜ日本は行き詰まったか』(2004年、岩波書店)を少し紹介したら、college-med メーリングリストで大変な話題になっていた事です。このような基本的問題と歴史的、社会的背景に興味と造詣の深い人たちも多く、なかなか捨てたものでもないなと思っているところです。しかし、このような議論が中学や高等、大学教育のレベルで何故起きてこないのか。そこに日本の教育問題の深さがあるように思います。同じブログでバランスを考えて中西輝政・京都大学教授著の『国民の文明史』(2003年、産経新聞社)も紹介しましたが、もっぱら森嶋さんに議論が集中しているのもすごい事ですね。皆さんすごいです。

ところで、このような意識を持った人たちが「社会のおもて」に出てこないのは何故かも考える必要があるでしょう。何度か発言していますが、日本の社会が「Low Risk- High Return」になっている可能性が高いからかもしれません。つまり、「偏差値の高い大学」へ行って、大会社、官僚になっている可能性が高く、従ってリスクを取らなくなっているのではないでしょうか。しかし、個人的には鬱々としているのではないでしょうか。だから私はリスクを取らない人は信用できないと言っているのです。所詮は「評論家」ですからね。社会的にそれなりの地位にいるのに、情けないことに、その社会的責任に対する「当事者意識」が欠如しているのです。

この視点から見ると面白い本があります。『東大に入って、東大を出る事』という本です(2003年、プレジデント社)。日本社会の「いかがわしさ」に気がついて、大きなリスクをとってしまった、まだ若い東大卒業生3人の自叙伝です。このような人たちが交流する場所があれば、時と共にすごいエネルギーが爆発するのではないか、と考えているところです。江戸末期の松下村塾もこんな人たちが集まり、吉田松陰たちが感化された、「場」だったのでしょう。このリスクを取る個々のエネルギーと、「場」が大事なのではないでしょうか。一人ひとりの志の高さの問題と、それを生かす社会の問題でしょう。